斎藤貫之と新村猛雄

昨日逝去した叔父と最後に会話を交わしたのは、昨年夏のこと。
母方の実家に、斎藤誠之(先祖)の写真が現存していると聞いて、その撮影に行ったときだった。


斎藤誠之、正確には齋藤誠之だと思うんだけど、これはさぼり記にときどき出てくる、斉藤八重のお兄さん(長兄)。
斉藤八重は、後に徳川慶喜実弟徳川昭武の後添え*1として娶られる人で、昭武との間に三男三女をもうけ、長女・政子の孫娘、つまり八重の曾孫が、今の常陸宮華子妃殿下。
齋藤誠之の弟、斉藤泰吉が六代目青木昆陽*2
誠之、泰吉、八重の父、齋藤為儀貫之は三千石の直参旗本で、八重を何らかの関係からか、徳川慶喜の家令(家扶)であった新村猛雄の養女とし、新村は慶喜の推奨で八重を昭武の後添えとして紹介――とまあ、そういうことらしい。


折に付け僕が中学生のときに「うちは青木昆陽係累」という祖母の話を聞いて興味を持ったのが始まりで、齋藤の系図はかなり解析が進んでいる。親族でそういうのが好きな人が調べたらしい。
誰が輿入れしたのか、現存する親族とどう繋がるのかまでは調べが付いたのだが、今だわかっていないことがある。
それは――。


斉藤八重は、どのような経緯で新村猛雄の養女となったか、である。
新村猛雄は、昭武に八重を紹介した明治17年に先んじて、少なくとも明治10年より前に、養女・新村信を慶喜の側室としている。新村信は慶喜との間に多くの息娘をもうけている。
信の場合、旗本の落胤→別の旗本の養女→新村の養女という経緯を経て、慶喜の側室に入っている。維新後、明治になってから慶喜の側室だったのは、新村信と中根幸の二人のみ。
慶喜が昭武に「新村の娘を貰え」と奨めたらしいのは、慶喜が新村信に満足していた現れだろうと思う。


斉藤八重は旗本齋藤為儀貫之の実子で、庶子ではない。
齋藤の家に残る「系図」は貫之か誠之のどちらかが(たぶん誠之)が書いたもので、自家の正統性を誇るもののようにも思える。初代と、実質的初代である「中興の祖」であり、伊賀越えに随行して功績があった鳴海伊賀衆出身の齋藤義政(茂政)について紙数を割いており、これは齋藤家の「出自の確かさ」を何かに向けてアピールするために用意された文書なのでは、とも思える。
その系図には八重についてはごく小さく「徳川昭武室」とある。
原書では誠之の名前が大きく記されていたので、まあこれが作成者当人だろな、と。


で、新村信の場合は庶子→養女→養女→側室の順だったが*3、八重は後添えながら他に正室はいない状態*4なので、「側室をあてがう」というのとは、どうも話が違うっぽい。
「後添えをあてがうのだから、出自確かな者を」
という条件もあって八重が選ばれたのだとすると、父為之(この時点ではまだ存命)がどういう経緯で娘を出すことになったのか、そこのあたりには大いに興味が湧く。


徳川慶喜は明治2年に晴れて隠居。
明治2年から巣鴨に移る明治30年までの間、静岡で楽隠居を決め込んでいる。昭武の隠居と八重を娶って松戸の戸上邸に移ったのが明治17年で、この頃慶喜はまだ静岡にいた。
直参旗本などの多くは慶喜に従って都落ちして静岡(主に駿府*5周辺)に根を下ろしていたので、慶喜と齋藤貫之、或いは誠之が接点を持つ可能性は十分にあった。というか、この頃はまだ主従関係に近いものが生きていたのではないか。(静岡では慶喜を「けいきさん」と呼び親しんでいた。慶喜も水戸風の「よしのぶ」より静岡風の「けいき」と呼ばれるのを好んだというから、静岡での慶喜は旧家臣や民草に人気のある存在だったのではないかなあ、とかなんとか。


で、この静岡時代の慶喜の邸宅に訪問した来客について、細かく記録した日記が存在するというのを最近知った。
これは「徳川慶喜家扶日記」と題されたもので、慶喜の家扶達複数によるものらしいのだが、実質的な家令(家扶長)であったと思しき新村猛雄の手による日記と考えて差し支えないのでは、と思う。
この本の現代語訳版が21世紀に入ってから出ている。所謂「古文書」の類ではないのだが、かなり部数の少ない稀覯書であるようで既に絶版のようだった。でも、ヤフオクで出てたので即買いした。
手続きのためのやりとりをしていたところ、販売者は現代語訳版著者(故人)の奥様からの代理で直販をしているのだそうで、これもまた奇縁。


新村猛雄については「新村出*6の養父」「慶喜の執事」として知られてはいるものの、それ以外のエピソードがほとんどわからない。
慶喜が一橋時代から仕える小姓頭取*7であること、維新後も終生慶喜に仕えた、今でいう「旦那様に仕える執事」のテンプレートみたいな存在と言ってよかろう。
新村猛雄の肖像写真を探しているのだが今のところ見つからない。
ただ、写真を日記替わりにしていた、と言われるほどの無類のカメラ好きであった慶喜が、常に付き従っていた新村をカメラに収めている可能性はかなり高い。*8
こちらは徳川慶喜の子孫に当たる徳川慶朝が硝子板(ネガフィルムに当たる)や撮影後の印画紙を発見しており、何度か写真集「将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集」として出版されている。
のだが、これまたこういう本は需要が少ないので値段がとんでもないことになっていて、なかなか手が出ない。古本になっても絶対に値段が堕ちない類の本だしなあ……。


新村の記録を調べることで、八重の養女・輿入れの推移がわかるかもしれない、と期待する一方、「斎藤貫之」名義で書かれた本、こちらは正真正銘の古文書が存在するらしいことが、さっきわかった。
タイトルは「孝行のさとし」、著者は斎藤貫之。明治8年に、静岡で刊行されたとある。同姓同名(齋藤は異体字、当て字、略字が多いので)の別人の可能性も高いが、「齋藤先生」など、一定の敬意を持って序文が書かれていることなどから考えると、齋藤誠之、泰吉、八重の父、直参旗本(この時点では士族)齋藤為儀貫之の可能性が非常に高い。
国会図書館に所蔵されている他、何故か千葉県野田市の図書館にも移しが存在するらしい。
なぜ千葉?
と思ったのだが、千葉は直参旗本齋藤家の知行地があった、とされる場所でもあり、知行地繋がりで……という可能性もなくはない。
こちらは、国会図書館から持ち出し禁止なので直に見に行ってみるしかないのだが、お題が「子供は親孝行せよ」なので、もしかしたら娘・八重を慶喜のお召しで昭武に嫁がせることについて、孝行として解説している(或いは自慢しているw)可能性がある。


昨日、毎日新聞社刊の「旧皇族・家族秘蔵アルバム〜日本の肖像」第二巻*9が、実家から送られてきた。
斉藤八重の肖像写真もあった。恐らくは慶喜同様カメラマニアだった昭武の撮影によるものではないか、と思われる。
面長瓜実の古風な美人で、「気立てが良く優しい娘だった」と添え書きがあった。
この気立てが良くて優しい美人の八重が、どのような経緯で昭武の元に嫁ぎ、昭武は八重を迎えて引退を決意したのか。松戸戸上邸には八重専用の部屋も設えられていたというから、昭武にはよほどよくして貰えたのだろう、と思う。


この「日本の肖像(二)」に収載された齋藤八重の写真の映し(たぶん、印画紙を再度撮影したもの)と思われるものは、昨年夏に許しを得て撮影した実家の写真の中にあったものと同一の写真だった。


叔父の去り際に、「探すべき、調べるべき道標」がこれほど次々に出てくるというのも、何かの導きか。
それとも帰天する叔父の置き土産だろうか。

*1:後妻

*2:青木家に養子に出される

*3:慶喜の夜伽は中根幸と新村信が交代でし、夜伽がないときは風呂炊きをしていたらしいので、半ば使用人扱い

*4:昭武は先妻・瑛子とは前年に死別している

*5:今の静岡市

*6:広辞苑の編纂者

*7:表と奥の双方の小姓の頭で、側近中の側近

*8:問題は写っている人物のどれが新村か同定が難しいこと(^^;)

*9:結構高い本で買えなかったんだけど、親が持ってた