昭武と八重

齋藤八重の足跡について、このところ資料買い足しで判明したことなどを整理。
もし僕が斃れたら、そのときはきっと姪甥が引き継ぐだろうことを期待してw

齋藤八重について
トピックごとに羅列。


明治元年 昭武15歳
 明治元年(1868年) 八重、齋藤為儀貫之の三女として生まれる*1
明治5年 昭武20歳/八重5歳
 明治5年 昭武、公家中院瑛子*2と婚約
明治8年 昭武23歳/八重8歳
 明治8年12月末 昭武、瑛子と結婚
明治14年 昭武29歳/八重14歳
 明治14年 昭武、従三位麝香間祗候
明治15年 昭武30歳/八重15歳
 明治15年2月4日 昭武、静岡の慶喜を訪問
明治15年4月頃 瑛子、長女昭子を身籠もる)
明治16年 昭武31歳/八重16歳
 明治16年2月8日 昭武正室瑛子、乳熱にて逝去
 明治16年5月25日 昭武、隠居願い*3を提出*4
 明治16年5月30日 昭武、隠居願い受理される
 明治16年6月11日 昭武、篤敬に家督相続(水戸徳川)
 明治16年8月3日 昭武により八重が召し抱えられる*5
 明治16年10月 八重、昭武の元に入る
 明治16年11月20日 天璋院篤姫)逝去
明治17年 昭武32歳/八重17歳
 明治17年4月7日 松戸戸定邸落成
 明治17年4月28日 天璋院遺物形見分け、慶喜邸女中の中に「八重」の名前あり
 明治17年6月22日 昭武、松戸戸定邸に引っ越し*6
明治17年10月頃 八重、政子を身籠もる)
明治18年 昭武33歳/八重18歳
 明治18年2月8日 昭武、静岡の慶喜を訪問。2月19日まで静岡滞在*7
 明治18年8月16日 昭武、次女政子誕生(八重)
明治43年 1910年
 明治43年 昭武逝去
昭和12年 1937年
 昭和12年 八重逝去

八重の生年月日が判明したこと、静岡士族齋藤氏が当時、静岡市葵区辺りにいたらしいことなどと付き合わせて、基本的な年表らしきものができてきた。
埋めるべき重要事項は他にもあるんだけど、昭武・慶喜の動向に関するものがメインで、八重となかなか繋がってこない(´・ω・`)


一方で、今ある資料だけでは見えてこないこともある。

不明点

  • 新村猛雄について(八重が新村猛雄の養女になった経緯と時期)
  • 齋藤貫之の経緯
  • 斎藤貫之は大阪城にいたか?
  • 八重が慶喜邸にいた時期は?*8
  • 蓮永寺の墓所の建立時期(たぶん、明治16年8月〜同10月までの間?)
  • 齋藤誠之の経緯
  • 明治18年の昭武訪静に、八重は同行したか
  • 明治17年4月28日の天璋院形見分けを受けた「八重」は誰か?
  • 明治15年までの昭武の立場を巡るあれこれ

とにかく分からないのは、八重はなぜ新村猛雄の養女になったか? 斎藤貫之(八重の父)、或いは齋藤誠之(八重の兄)は、なぜまたはどの時点で八重を出したか? なぜ、選ばれたのが「八重」だったのか?
蓮永寺の話は先だっての葬儀帰省で聞いたばかりだったが、これは恐らく明治16年(昭武に召し抱えられるのが決まってから)から、明治17年戸定邸に入るまで)の間のどこかだろうと思う。
明治16年2月に正室瑛子が亡くなる以前に話があったのだとすればそれは「側室」としてで、それ以降だとすれば2月〜8月までの半年間のどこか、ということになる。
八重は瑛子亡き後、昭武とともに生涯を戸定邸で過ごし、実質的な後妻の位置にあるのだが、瑛子を亡くした直後に八重を「娶る」ことについては、昭武の生母である秋庭が強く反対してたらしい。その後、彼女らは戸定邸で終生同居することになるわけなのだが、八重が秋庭に認められたのかどうかも、ちょっとわからない。


蓮永寺の墓所はいずれ行くとして、松戸戸定館にあるらしい昭武の日記を紐解けば、そのあたりの八重と昭武と秋庭を巡る話なんかもわかるのかもしれないけど、昭武の日記はその辺りは一般公開されてない。
昭武はかなり筆まめな人だったらしいので、八重を迎える経緯について何も記録を残していないことはないだろうと思う反面、八重は明治以後の歴史上重要な人物でもないので、研究の対象からは外れてるのかもしれない(^^;)

*1:http://burari2161.fc2web.com/tojyoutei.html※戸定館では「斎藤貫之次女」となってるっぽい。要確認。

*2:公家の息女で昭武の最初の妻

*3:これは水戸徳川家の、という意味

*4:http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/shisetsu-guide/rekishi/tojo/kakotenji/H140129.html ※「失意のうちに甥、篤敬に家督を譲った」と戸定館資料にあるが、昭武は甥が成人するまでの間のみ徳川当主を守り、篤敬の成長に伴い宗家に家督を返した、の流れ。

*5:※恐らく5月の隠居願いから8月の召し抱えまでの間に、慶喜の進言で新村の養女となった齋藤八重を迎えることになるのでは。ただし、明治16年天璋院葬儀(12月)まで慶喜と昭武は会っていない

*6:http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/shisetsu-guide/rekishi/tojo/kakotenji/H140129.html

*7:※もしかしたら、このときに既に八重の懐妊は発覚してて、貫之がそれを知る機会があったかもしれない。

*8:※新村猛雄の養女という名目で慶喜邸に在籍していたことがあるのだとするなら、少なくとも明治16年10月よりは前となるが……。