落ち穂拾い

増刷がかかるということは、つまりは初刷に残っていた間違いを直す作業が必要となる。
今まさにそれをやっている途中なわけだが、毎回のことながらこの作業は落ち穂拾いに似ているなあ、と思う。
 
本作りというのは米作りにも似ていて、田を耕して苗を植える(ネタ探し)、その生育を手塩に掛ける(原稿を書く)という長い期間の後に、刈り取り(編集と組版)という作業が待っている。
この稲刈りがクセモノで、本来なら時間を掛けて丁寧に刈り取ってはさ掛けなんかもしたいところなのだが、ギリギリ一杯まで稲の成長を見守ってる……というわけではないんだけど、原稿アップがぎりぎりまでかかってしまうため、どうしても刈り入れ作業は慌ただしいものになってしまう。本当は人海戦術で刈り入れをしていきたいのだが、人手も足りず、ついついコンバインで田んぼを疾走という感じで毎回の編集・組版作業を行っている。
 
この編集・組版作業については、以前書いたが、素の原稿が上がってきたところから、その推敲、表記統一、内容に応じた構成順などなどを整理していくところまでが「編集」的仕事で、整理が終わった原稿を流し込んでデータを造り、本文のレイアウトから判面の整形、ショートページのデザイン、果てはルビを入れる作業などなどを含めて「組版」作業と言う。
本来、編集は編集者が、組版は印刷所の製版オペレーターか昨今ではデザイナーが担当する作業なのだが、ウチでは、素原稿UPから印刷所が校了出力をする直前の納品データまでを僕が一人で作る。原稿執筆時間を極限までひっぱり、なおかつその後のタイムラグを可能な限り圧縮するためにこのスタイルを採っている。
 
メリットは、その目論見通り、原稿執筆時間をぎりぎりまで引っ張れること。
また、編集と組版の行程がほぼ一体化しているため、担当者引き継ぎなどによるロスがないこと。
本文内容のデザイン面や構成に、著者がコミットできること。
編集者(版元の)の負担が大きく軽減されること。
 
デメリットは、編集・組版担当の負担が非常に大きくなること。
そして、人手を介する機会が減ることにより、ミスの発見の機会も減ってしまうこと。
特にこれが大きい。
つまり、誤字を見逃す可能性が高まってしまうわけだ。
ゲラを出す前に僕は10〜20回くらい原稿に目を通す。その後、著者が1回、担当編集者が少なくとも2回。校正出力を出してから僕は3回くらい読む。
ゲラの前に10〜20回も念入りに読んでいるから間違いは出にくいだろう、というのは素人のあかさたなという奴で、5回目を越えるあたりから、ついつい流し読みになってしまう。内容がわかっているので、新鮮な目で原稿の字面を追えなくなる。つまり、疲弊してしまうのである。
そのため、本当はここで5人以上の「初めて読む」人間に読ませたいのだが、時間的余裕のなさのため、僕、著者、担当編集者以外の人間にゲラを読ませる機会はなかなか取れない。
先だっても、以前薬品の注意書きの校正をしていたことがある家人に無理矢理読ませ、翌日の出勤に支障をきたさせた。(ごみんなさい)
毎回、「あと三日時間があれば事務所のスタッフにも読ませられるのに」と思うのだが、原稿UPから校了までが三日しかないとなると、それはおよそ無理。
 
そんなわけで、目を皿のようにしてもやっぱり誤字は残る。
それも、「ぎゃー。なんでこれに気づかないんだ、自分!」というようなのが。
落ち着いて読んでみれば「読む以前に、見ただけでおかしい」と気づくのだが、追いつめられているせいか3人で読んでも3人とも気づかないなんてことはしばしば起こる。
 
本を作る仕事をしていて、誤字というのは恥ずかしいことなのである。
が、こればっかりはどんなに拾っても拾いきれないものでもある。
今回、僕はまたしても落ち穂拾いをしている。
落ち穂がいっぱいあるなら、むしろ拾い甲斐があるのだが、落ち穂にほとんど気づかない場合、むしろどんどん不安になってくる。
 
Eは、カバーに2箇所の落ち穂があった(カバーは担当編集女史の担当なのだが)。
そして、本編の落ち穂は未だ発見できないでいる。
何もないならそれに越したことはないのだが、何もないなんてことがあるはずない!(笑)
そんなわけで落ち穂拾いは本日中のお仕事。