Σ( Д )゚ ゚

今年、一番驚いたこと。
行きつけの居酒屋AKIちゃんが、本日閉店とのこと。
本日まで営業とのこと。
今連絡もろた。
あわわ。あわわ。
これからどこに飲みに行けばいいんだ。


このお店ではこの数年間、我が家の一部のように居心地よく過ごしてきた。なんてことのないちっちゃな居酒屋だったんだけど、「ただいまー」と入れる店だった。
そんな風にだらだら過ごさせてくれた大好きな店はこれまでにも何軒かあった。江古田の「とりちゃん」とか。なくなっちゃったけど。
思うに、うまい店であることよりも、連日満員の人気行列店であることよりも、何よりも凄いことというのは、「とにかくそこにあり続けること」なのだ、と思う。
もちろん、いい味だったり評判の看板娘だったり、そういうものは大切だし、重要だ。でも、そういうものをひっくるめた全ては「店」という器があってこそ。その店という器そのものを存続させ続けることの難しさ。新しいことを追究しつつも、いつも変わらず明日もあるという安心感を提供し続けることの難しさ。そういうことをまた、大きな喪失感とともに味わった。
そういえば、「超」怖い話もそうだった。なんとなく毎年ずっとできるような気もしていたけど、常に「売り上げ」という数字の評価が次を決めてきた。売れなければ次はないという緊張感を自覚し続けていた。まさか版元がなくなるとは思ってもみなかった。それだけに復活した「超」怖い話Αは、僕にとって単にシリーズが復活したということ以上に大きな意味があった。
一度やめてしまったら、それを復活させるのには物凄く大きなエネルギーが要る。エネルギーだけでは復活できない。復活しないで済むように、つまりは復活しなきゃならないような事態=終了してしまわないように、「また読める」という安心感を作るには、とにかく続けなきゃとにかく存続させなきゃという思いが強くなった。
もちろん、思いとかそういうものだけで続けられるものではない。実話怪談は取材というかネタがあってこそだし。ネタを集め続けることにはもちろん大きなエネルギーや運が費やされるわけで、いつかおなかいっぱいになってしまう日は来るんじゃないかなと思ったりもする。実際、実話怪談だけを長く続けられる人というのは、日本にもそう多くはない。ごく深い情熱を保ち続けられてきた人だけが、それを続けられているのだと思う。本当に頭が下がる。
が、それは著者の都合。「もっと続きを読ませろ」というのが読者の求めであった。それは二度の復活劇で痛感している。シリーズは著者のものでありつつも、著者だけのものではないと思うのは、そういうところだ。
僕にとって実話怪談というのは、「持て余して捨て所のないもの」であったと思う。体験者の方の多くに「持て余している」という感があった。「聞いてもらえてすっきりした」という方も多くあった。託された僕にとっても近い感情があって、「とりあえず独り占めしていると怖いので、本に捨てて、読んで貰えればすっきりする」というか。ここのお話については、大切な作品とか僕のオリジナルとかいうのは、どこか違うように感じていた。
それが故に、「いつでも持て余しているものを捨てられる場所」としての「超」怖い話が必要だったし、今もまだ必要なのだと思っている。いつもないと困るのだ。僕にとっての「超」怖い話は、たくさん怪談を書いて名を挙げたいとかそういうものじゃなくて、預かりもののほんの少々の持て余した話を打ち明けられる、大切な隠れ家的飲み屋のようなものなのだ。なくなっては困る店と同じだ。
「超」怖い話竹書房に移ってからの僕の最優先目標は、「超」怖い話がなくならないようにすること、であったし、今もそのテーマは続いている。怪談本として良い出来のものを作りたい、読者の方々の求めに応じるものを提供したい、胴元として制作費を負担し発行元として販売をされる竹書房にそれなりの利益還元をしなければならない。そうしなければ、次がない。
内容面においては、異能の天才である平山夢明氏がいれば、何の心配もいらなかった。むしろ内容面以外の部分に注力するのが、僕の使命と心がけてきた。が、一人の天才に全てを負ってしまうのは危険だ。万一の場合、天才の喪失とともにシリーズが途絶えてしまう。僕がいなくても「超」怖い話は続けることが可能だけど、平山夢明氏がいなくなったら「超」怖い話は続けることが困難になる。平山夢明「超」怖い話、はそれで完結ということにもなるかもしれないけど、それは同時に「超」怖い話そのものも死ぬことになってしまう。著者だけのものではない、「超」怖い話というシリーズにはそのような勝手に死ぬことは許されない。
店側の事情で閉店するようなことは、店の常連が許してくれない。
いつか平山夢明氏が世を去っても、加藤一がどこかで行方不明になっても、O女史に何かがあっても、「超」怖い話という店、「超」怖い話という器が存続さえしていれば、中に満たすものをいくらでも入れ替えて「超」怖い話「超」怖い話であり続けられる。
中身が少しずつ変わっていくのはいい。新メニューが増えてもいい。開店以来の人気メニューももちろん残っていい。店員だっけ少しずつ変わっていくけど、変わらなければいけない、前任者と違うことをしなければいけないというわけでもない。したいことをすればいい。それが前と同じでも、前と違っても、どちらでもいい。
こうしなければいけないというセオリーがないのが「超」怖い話だが、やはり何より「超」怖い話という店そのものは続けなければいけない。続いてさえいれば、中身はどうとでもなる。


「居酒屋AKIちゃん」は、とても居心地のいい店だった。
いつも地元の人達でいっぱいだった。仲良くなった飲み友達もいっぱいいる。ニューカマーとして東長崎に引っ越してきた僕らが「地元」に馴染めたのは、この店のおかげだと言ってもいい。ここに馴染んだから、土地にも馴染めた。
お店はなんとか黒字だったらしい。でも、どうしても資金繰りが行き詰まったんだ、と店の主人は呟いた。
同じ店、同じシリーズ。
同じものを同じ場所で同じように続けていくというのは、なんと難しいことか。
客の顔ぶれが変わっても、店の女の子が変わっても、それでもあの店はいつもあそこにある。いつ訪れても、いつもお帰りと言ってくれる。そういう店であることが、なんと難しいことなのか。

熱意だけではどうしても続かないことがある。美意識だけじゃダメなこともある。利益をちゃんと出していかなければ……きれい事だけじゃダメなんだ、と思い知らされる。良いものを作るだけじゃ、良い店であるだけじゃ、良い人であるだけじゃ…………。


僕は無店舗稼業だけど、幸いにして「超」怖い話という「店」に長く関わらせていただいた。
良い店であると思う。そう言って通ってくれる常連さんも多い。そうした常連さんに「また来年も、また次も「超」怖い話はいつでもある」と思ってもらえるよう、店を営業し続けなきゃ。そのためなら、どんな手でも打とう。僕は厨房に籠もって仕込みを続けるだけでもいい。カウンターでシェーカーを振るのは、元気がいい若手でいい。なんだったら、綺麗どころだって入れてもいい。とにかく、この店を保たせよう。ずっと、続けよう。





畜生、この年の瀬に。
今日、朝目が醒めたときまではいい気分だった。
笑ってまた来年って言おうと思ってたのに。
喪失感で泣きそうだよ。畜生。
いい店でいてくれてありがとう。