無機物を愛する日本人のメンタリティ

初音ミク」は、サンプリング音声データを再合成することで、人間に近い歌唱を行うソフトウェア、或いは実体が存在しない仮想楽器である。
人によっては忘れがちだがw、これは結構重要な前提条件だ。

その前提に沿って、「ソフトウェア」として扱うのならば、人格など認めるべきではないし徹底して道具として扱うべきだ、とする考えがある。あくまで、主格はそれを使う人間なのであって、道具は従属的な扱いに留めるべきで、道具に人権や感情を期待してはいけない。とする、極めてリアリスティックな考え方。

一方で【初音ミク】を道具ではなく人格を持つ仮想の存在として捉える、という受け取り方がある。クリプトン社が「バーチャルアイドル」という定義で売り出したことも、その一因にあるのかもしれないが、これについては追々。


初音ミクVocaloid全般)」を使って歌曲作りをする人にとっての「初音ミク」という存在は、概して一枚板であるわけではない。

  1. 初音ミクを、楽曲作者が自分の思った通りに歌わせるための完全な道具(ツール/楽器)として捉える。あくまで、楽曲作者にとっては思い通りにならない人間の歌手、或いは調達できないボーカルの代わりであって、心の通わない人形(道具)と割り切る
  2. 初音ミクをフィギュアの一種*1として受け止めた上で、人格があるように接し、扱い、想いを寄せる
  3. 初音ミク会ったことはないがどこかにいる実在の人間の声優/俳優/アイドルのように受け止める

(1)にとって、初音ミクはあくまで「歌ってくれる道具」であるわけで、【初音ミク】という実在しない存在の人格について配慮する必要がない。あくまで、そういうツールとして提供されたものとして受け止め、楽曲作者自身が主格となって作った曲を歌わせるために【初音ミク】という楽器が必要である、という認識だと思う。

(2)と(3)は基本的に同じようなもんで、(3)のほうが(2)より重症w
キャラクターソング*2というのは、(1)ではなく(2)(3)の意識の延長線上にあるものと言える。
その意味で、(1)と最大に違うのは楽曲作者が主格ではなくて、【初音ミク】が主格にあるという点。
初音ミク俺の嫁」という概念wは(2)に根ざしており、「ミクの気持ちを考えろ!」という概念は(3)に根ざしている、と思う。たぶん。

もっと言うと、初音ミクを実在のアイドルやアイドル声優に置き換えて捉えている人が多いということの現れかも。



ところで、日本には古くから「無機物に有機的な人格が存在する」という概念を持っている。以前別のエントリーでも書いたような気がするのだが、八百万の神々の概念というのは、「大木にも大岩にも道ばたの石ころにも、神*3がいる」というもの。
このため、多くの日本人は無宗教でありながら、信仰を成立させるための共通の概念は持っていると言える。
もちろん車にも産業用ロボットにも鉄腕アトムにも固有の人格が宿っているという受け止め方をすることに抵抗がない。愛車、愛機という言葉にあるように、無機物との間に心の繋がりがあるという受け止め方をする人も珍しくない。
その上で、自発意志で自分の主張を発声できない存在には何らかの主張があり、無機物と向き合うことでその無言の訴えを自分自身が聞き取り、代弁するという前提に立った行動を取る。

「妖怪は見えない。だから見えないものを無理矢理見るんだ」とは怪談界の巨人・水木しげる翁の言葉なのだが、何も言わないものの声を無理矢理聞き取る、聞き取ったつもりになるという行為は、実は日本人にとって結構ありふれた普通の行為なのかもしれない。
だからこそ「空気を読め(=言われなくても察しろ)」という日本語独特の言い回しが常識として受け止められるのかも。


初音ミク】のキャラクターソングというのは、「人間の形」を持った人形に魂を入れる行為の産物であるわけで、無機物と心の交流やプラトニックな思慕関係を、他の人間の耳目に触れるように形にしたものと言える。しかも相手(ミク)の無言は自分への賛意である、という前提の。
この意識というのは、カリオストロの城の見せ場のひとつである「意義無きときは沈黙を持って同意とする」なんかを例えるとわかりやすいかも。
「NOと言われなければそれはYESと受け取っていいんだな」という感じでw

このように、「思い入れ」によって実際にはされていない発言を無理矢理心の耳で聞き取って、楽曲の形で再現したのが、所謂キャラクターソングなのだという理解をしている。


こういった無機物への愛というのは、理系のメンタリティの中にしばしば見かけることがある。

●よみうり小論文講座(2003年6月1日号)
http://www.yomiuri.co.jp/education/kouza/syoron030602.htm
※文中真ん中くらいにある「人間と機械のコミュニケーション」の項に、産業用ロボットに「百恵ちゃん」という名前を付けていた話、ロボットへの思い入れと擬人化の話が登場。


今度いつ帰る〜はやぶさ探査機〜ミクVer.
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1984205
はやぶさスレの野尻先生のレスから生まれた、さだまさし「今度いつ帰る」のカバー曲。小惑星イトカワからの帰途にある探査機「はやぶさ」を、多分に理系的センチメンタリズム満載で歌う。

「彼らは何も言わない。だからこそ、俺たちがその気持ちを汲み取ってやらなくちゃ!」
という日本の美徳的心意気は、これもまた「あらゆる無機物には魂があり、無言の無機物の声を推し量って汲み取るべき」という概念と繋がっているように思える。


多くの【初音ミク】という疑似人格を愛でる行為=キャラクターソングの発生は、こうした出自から言えば当然のことなのかもしれない。


そういえば、プロデューサーと駆けだしアイドルという関係のようでいるために「ミクを調教」という言葉が出てくる。でも、実際にそれを使っている人々は「やるのは俺だよ!」つまり、調教=ソフトウェアの調整能力を向上させているのは、ミクではなくてユーザー自身だということを自覚している。
それであっても、「ミクの能力を自分が出し切れていない」という受け止め方をする人が多い点は、仏師にも似ているなあ、と思う。
仏師は「仏像を作る」のではなく、「木材や石材の欠片を払って、仏様をお迎えする」という信仰心に溢れた言い方をなさる方が多い。つまり、完成型・完全なお姿というのはもともとあるのであって、それをうまく彫り出せるかどうかが自分に託されている責任、みたいな感じ。
これも、木材・石材という無機物に対して何らかのSoulがある、という八百万的考え方に根ざしていると言っていいかもしれない。


そんなわけで、【初音ミク】という「姿形は人間そっくり、歌う能力もあるけれど、自発的には何も主張しない」という概念と、その内面をユーザー自身が代弁するキャラクターソングというのは、もともと日本人にとって親和性が高い、相性がいい組み合わせだったのかもしれない。



だがしかし。
初音ミク】を(2)(3)のような、人格やパーソナリティを持った存在であるかのように捉えるというのには、功罪で言えば罪の部分もあるような気がする。


キャラクターソングは、P(ユーザー)と初音ミクという関係を築く最初のとっかかりとしては大いに作られるだろうし、実際作られてきた。「恋するVocaloid」を始め、初音ミクとユーザーの間に、言葉にはならない心の交流があるとした曲は今も数多く作られている。
だが、【初音ミク】に過度の設定の拘束を与える状態を是としてしまうと、約束事を理解していないリスナーは捨てざるを得なくなる。初音ミクの「ネギ」もさることながら、

これらの約束事が増えれば増えるほど、キャラクターソングに乗り遅れた人の疎外感は大きくなり、キャラクターソングの意味がわかる人間の間だけの「ちょっと大きな内輪受け」だげループしていくことになる。
それはそれでいいんだけど、それが絶対正義として君臨してしまう状態はあまりよくないのかもしれない。

もし本気で「初音ミク」というソフトウェアのさらなる普及を目指すつもりなら、ユーザー側が「初音ミク」の用途を制限し、新参者や別アプローチを試みるものを排斥するという行動はむしろ逆効果のように思える。


猥歌や、潔癖で純粋なキャラクターソングファンにとって不愉快な曲の類を否定するのはもちろん自由だと思う。
が、そうした曲を発表することを実際に禁止してしまうという純化路線は、選択肢の幅を狭め、新しい発見や展開への活力を奪ってしまうことにもなりかねない。
それは(淫猥に対する反意語としてではなく)健全な状態と言えるんだろうか?


それ猥歌であれなんであれ、良いか悪いかは供給者(この場合は開発元も、楽曲作者も双方を含む)が決めることではなくて、受益者が決めることなんじゃないかな、と思ったりする。
ダメなものだったら、もしくはそれをダメ、つまらんと思う人が多数派なら、いやでも淘汰されていく。淘汰されず注目されるとすれば、それは第三者がどう思おうと確かに受益者の支持を受けているということだと思う。


人は、善意に立ったときあらゆる手段を正当化し、あらゆる強権を行使することに抵抗感を感じなくなる。圧倒的に相手に非がある戦争*7は正義の名の下に賛成し、相手が100%悪いと判断できる状況下での正当防衛では力の下限ができなくなる。
遠藤周作はこうした「善意に基づく強権的行為」を正当化しようとする心の動きを「善魔に魅入られた状態」と活写した。
「良識を持った少数のエリートが、衆愚が道を誤らないように指導する」
これはナチスドイツ、中国共産党、戦前の軍部主導の日本、日本のマスコミ、スターリン政権下のソ連北朝鮮などなど、類例などいくらでも挙げられるありふれた概念なのだが、「【初音ミク】には○○○をさせる(させない)べきだ!」と、善意に基づいて声高に警告する人の姿は、どうしてもそれらに重なって見えてしまう。


良いか悪いかは受益者が判断すればいいこと。
悪いものを作っている供給者は、支持を失い自然淘汰される。
それでいいと思うんですが。

*1:フィギュアについては、ここでは広義で2次元的なキャラクターや、創作作品中の登場人物という意味も含む

*2:個々のVocaloidにはそれぞれ個々人格や人間関係がある、という前提で書かれた曲

*3:この場合の神はGODではなくて、Spirit(精霊)またはSole(魂魄)という捉え方

*4:「アイスクリームのうた」http://www.nicovideo.jp/watch/sm1067989 がブレイクしたから。

*5:初音ミクが届いた気がしましたが」http://www.nicovideo.jp/watch/sm993124 他、一連のワンカップPが、「MEIKOカップ酒でやさぐれている」という曲を出したから。

*6:初音ミク「すいません…、鏡音リンを予約したいのですが…」http://www.nicovideo.jp/watch/sm1667273 に皆がワルノリ。

*7:その逆も含めて、一方にだけ非があることなんて実在しないんだが