DEBUTANTEとハイトニックライブ

本日の初音話題としては、DEBUTANTEが到着したこと。
なんて豪華な。そしてなんと完成度の高い1枚……いや、2枚組だった。
一言で言い尽くすのはもったいないから、これからじっくりじっくり聞こうと思う。


ひとつ抽出して触れるなら、4人参加しているボーカルのうちの「はるよ(カナリア/TOO BAD GIRL)」と「Milia(カイソウ/フキゲンワルツ)」(いずれも敬称略)について。


Miliaは、その固有名が定まる前、うたのおねいさんと呼ばれていた人。今もそういうタグが付く、NHKみんなのうた系ボイスの方。曲により、若干揺れがあったりもするのだけど、ぱっくりハマる曲にはほんとによくハマる。


はるよは、bakerのcelluloidをマイクが変わるたびに歌い直してた人、としてかつてエントリーで触れたことがあった。celluloidを歌った人の中では個人的に一番のお気に入りであったのだけど、こうして歌曲に命を吹き込む魂の鞴(ふいご)として注目されていくことで、今後も新たな曲を歌ってくれるであろうと思う。楽しみが増えて嬉しい。


また、雲の遺跡を歌った「桃木真美」は、非常に申し訳ないことにこれまで未チェックであった。とても心地よい歌声の人であると思う。この名前でもう少し探して、他の歌も聴いてみようと思う。思わぬ収穫であった。







そして今日は、ハイトニックの屋内ライブの日でもあった。
日中の作業中はDEBUTANTE、仕事を切り上げてからの上野ではハイトニック。
正に、音に溺れる一日。


普段、ライブに行くと何となく手癖でセットリストをメモってしまうのだけど、今日は書くもの持ってくの忘れたorz
ということで、もういいや。そういうのは。と、聞きに徹することにした。


今日の会場は上野のアメ横の一角にあるDoobie'sという50年代アメリカ風のサンドウィッチ屋さん。ビルの一階の通りに面した喫茶店というべきか、ライブ喫茶というべきか。
ステージは店の奥に向かって、ではなく、その通り側にあった。
客席に座って入り口横のステージを見ると、彼らの背後に通りが見える。店の大きなガラスの向こうには、路上を行く人の群が見える。
屋内ライブなのに、まるでいつもの雑踏にいるような錯覚。
もちろん、おまわりさんが止めに来ることもなければ、ステージの横にホームレスの人が転がってるということもない。雑踏からのSEはいつもよりずっと小さい。逆に通りのざわめきが恋しくなるくらいで、ステージの合間に客席から聞こえる咳(しわぶき)にホッとする。


夕方18:40頃、ライブは始まった。
客層は、高校生が1/3くらいかな。僕から見たら若く見えるってだけで、もう少し上の人もいたかもしれない。20代〜30代くらいが中心。50代かそれ以上くらいの方もちらほら。でもたぶん、僕より年輩の人wはきっと10人もいなかったと思う。
屋内ライブ――普段が路上ライブだから、屋根のあるところでやるのが屋内ライブ。そういう呼び方をしているらしい。
かといって、歌曲を次々に思うまま投げつけてくる、というスタイルでもない。なんとなーく気が付いたら始めていて、一曲やるたびに路上でお客さんを弄るような緩いMC。歌ってなんか喋って、ワタナベ君がリーダーに助けを請う、または赦しを請うような目をして、リーダーがワタナベ君の背を押す。そういうやりとりと歌が漣(さざなみ)のように寄せては返す。


ワタナベ君の書く歌――詞は、頭の上を滑っていくようでいながら、ふと気が付くとちゅるちゅると染みこんでくる。なんというか、フレーズが残るのだと思う。雑踏で聞いたときにもそうだった。
僕らの日常や等身大の世界の中にある、凄くありふれた言葉でしかないはずなのだけど、それがどういうわけだか耳に残る。こびりつく。
聞いている最中は、実はそんなに気にも留めていない。だからつい聞き流している。それが、ふと手を止めたとき、自分の中にドッと流れ込んでくる。
少し書き出してみよう。

週末まであと六日もあるんだ

うっかり僕が神様だったら太陽をもひとつこさえてたのに

僕の話を聞きなさい。軽い気持ちで聞きなさい

生涯で一番沢山使う言葉が、幸せな響きのものであるといいな

うおう、いかんいかん。全部書き出しそうな勢い(^^;)
気に入った曲の、気に入ったフレーズだけランダムに。どの曲のものか、どんな風に歌われているものなのか、それは来週の池袋に来てくださいw


ワタナベ君とリーダーは、高校の同級生であったらしい。
ビッグバンドをやって、5人編制くらいのバンドをやって、今は二人でやっている。どうして二人だけでやることになったのかは、よくわからない。聞いてない。
曲、詞ともに歌うワタナベ君が書いている。Eギターを弾いているほうがリーダー。二人の関係、というか二人が一緒にやっている理由というのに、実は非常に惹かれているのだけど、まだよくわからない。直接聞いたら教えてくれるかもしれないし、煙に巻かれるのかもわからないw
あえて正解を聞かず、彼らの音楽、歌、演奏、合間のMC、仕草、そういったものから嗅ぎ取る、想像するというのも楽しいのかもしれない。それは大ハズレで正解からはほど遠いかもしれないけど、そのようにいろいろ想像するのもまた楽しい。いや、そう感じた、というか。


これはハイトニックに限った話ではないのだけど、多くのバンドには中心的人物というのが必ずいる。定番の組み合わせで言えば、それはボーカルかギターのどちらかであることが多いようだ。ギタリストは曲(メロディ)を紡ぐことに熱心で、ボーカルは詞(歌詞)を綴ることに熱心で、それぞれに主張したいことがより合わさって曲ができる。
その双方をボーカルが、あるいはギタリストが担っている場合もある。
ハイトニックの場合は、その主張したいメッセージの多くをワタナベ君が担っている。
これはモノカキの場合もそうなんだけど、文を書く、絵を描く、詞を書いて歌う、そういう様々な形での表現をしたい人、もしくは「表現をすることで、言いたいこと・伝えたいことを吐き出したいという衝動を抑えきれない人」というのはいる。なんというか、歌うために曲を書いているのではなくて、歌わずにいられないほど言いたいことがいっぱいあるから、それを歌という形で噴出させる。
そういうパッションのようなものがある人というのは、どうかすると突っ走ってしまったり迷ってしまったり、落ち込んでしまったりもする。

もちろん、中には自分に絶大な自信を持っていて、周りが何を言おうがどう思おうが、何の迷いも衒(てら)いもなく、自分を信じてやり抜ける人もいる。
一方で、それを思い切り踏み出せないタイプの人もいる。気弱、というのとはたぶん少し違うのだろうと思う。周囲を伺い、気を使う。何度も何度も足下を踏みしめて、これでいいのかな、と首を捻る。新しいことをしたい、もっと踏み出したいという気持ちがある一方で、もっと足場を固めてからのほうがいいんじゃないかなと立ち止まったりもする。

近所の小さな公園で一人ブランコに揺られる少年
彼と僕とを重ねはしないけど、前へ後ろへ行ったり来たり

てなフレーズを含む歌があるのだけど、この行ったり来たりしているのは、実はワタナベ君自身のことなのかな、と思ってみたり。そうではないのかもしれないけど、そう思えたのはワタナベ君とリーダーの間に流れる空気から。今がそうかどうかわからないけど、かつてそういう時間があって、そういう迷いの往復の中でリーダーはワタナベ君の背を押す人として在った、そして今も在るのではないかい? と思えたのだった。


後ろを振り向いてリーダーに「いいかな?」と問うワタナベ君と、その迷う背中を押して「お前が頑張れよ」と応援する、またはせき立てるw役を負うリーダー。
リーダーのEギターは時にリードを取り、曲中ではベースラインを多く担当する。このベースラインがあってこそ、ギター2本だけのハイトニックのオケが引き締まるのだけど、それは同時にワタナベ君とリーダーの関係を音で現したものであるのかもしれない。
むしろ逆に、そういうボーカル、アコースティックギター、ベースを兼ねるEギターという楽器の相関関係から、ハイトニックのそういう空気を僕が嗅ぎ取ったということなのかもしれない。
何度か足を運ぶうち、いろいろ二人のことを聞かせて貰う機会も得た。僥倖(ぎょうこう)なことだ。
でも、正解は聞いてない。
僕の深読みしすぎ穿(うが)ちすぎ、見当違いの思い込みなのかもしれない。多分そうだろう。
まあでも、音と歌と彼らの気配から、そんなことを類推するのがまた楽しい。僕はきっと、こうやってハイトニックに深入りしていくんだろうなあ、とか思う。


気付くと、表通りのシャッターはしまり、道行く人の流れは足早に駅を目指すものばかりに変わっていた。夕刻、下谷神社のお祭りで賑わっていたアメ横は、熱気も落ち着いた祭りの後の空気に変わりつつあった。
一部・休憩を挟んで二部、アンコール、そんな感じでライブは終わっていく。


ライブに行ったら、アンケートは必ず書く。
今回も書いた。
その場でたくさん書き出すときりがないから、アンケート用紙には少しだけ書いて「続きはさぼり記で!」と書いてきたw
そのとき、少しだけ、
「今、必要な音楽と出会えてよかった」
みたいな感じのことを書いた。


僕は、ハイトニックになんでこんな短期間に没入するようになったのか。
それはたぶん、今、僕にとって必要な音楽だからだったのではないかな、とか。
知っての通り、僕はミク廃*1だし、打ち込み系DTMからテクノからトランスから民族音楽からジャズ・ジャイヴ*2からロックから昭和歌謡から歌謡ロックwから、アイドルポップからデジポップまで、ヘタすると民謡でも軍歌でも演歌*3でもなんでも聞く。所謂、雑食で蟒蛇(うわばみ)。
懐かしい曲を聴き、青春時代wを思い出させる曲を聴き、今が正に青春なのであろう現在進行形の人の曲を聴き、憧れを聴き、慟哭(どうこく)を聴き、後悔を聴く。
だからVocaloidがその堰を切ったことで、溢れ出てきた大量のボカロ曲――名もなき、そしてプロを目指すわけでもない多くのP達が紡ぐ曲の洪水に身を委ねることは、この上ない幸福である。
それに揺らぎはない。


だがしかし。繰り返せば、その幸せの洪水のような音の中にありながら、ハイトニックは「立ち止まって空を仰ぐために、必要な音楽」であり、また、今の僕が今聞かなければならなかった音楽だったのではないか、とも思う。
これがあれば他には何にもいらない、とはさすがに言わないw
これからも浴びるようにいろいろな音楽を聴くだろう。耳が潰れるか、もう何も聞かなくていい、聴くことが出来ないという日が来るまで。
その洪水の中にあって、ハイトニックの音楽はきっと、一息入れるためのものだったのか、それとも行方を見失ったときに、立ち戻るためのものだったのか。そんなことは、もっとずっと後になってみないとわからない。
けれど、今は。今だけは、この音と出会わなければいけなかったんだろうと思う。
あの日、あのとき、あの池袋の雑踏で出会ったのは、偶然か必然か。
買い物ついでにユニクロに行こうとしたのは別に必然じゃなかった。靴下は別に急いで買わなくても良かったのだ。
でも、ユニクロで靴下買わなきゃ、なんて言い出さなかったら、ハイトニックには出会わなかった。
これは神様に感謝すべきなのか、ユニクロに感謝すべきなのか。ユニクロに靴下をって言い出した家人に感謝すべきなのか。それともユニクロを出た後、元の場所に足を留め続けた僕がエライのか、そんな僕を急かさなかった家人がエライのか。家人、2回出ました。
まあ、ここは神様ってことにしとこう。


神様はなかなか粋なことをする。
出会いをありがとう。


そしてまた来週。






*4

*1:と、僕のことを最初にそう言ったのは僕じゃないw 野尻さんw 

*2:本当はそのジャンルが好き

*3:この場合の演歌は、都はるみのほうではなくて、添田唖蝉坊のほうなんだけど、もちろん古賀メロディもエノケンでも笠置シヅ子も許容範囲内。むしろ笠置シヅ子は大好き。

*4:ハイトニックを路上で聞いてる常連さんと多くお近づきになった。今日の会場でもそうだったけど、結構高校生が多かったりした。さぼり記では割と意識せずに難しい熟語を使ってることが多いので、今回は難しい字にルビを入れてみました。