メモ作り

メモ作り作業に没頭。
転がって本読んでると、頭に何か閃いたりするので、慌てて書き留めたりする。
百均で3冊100円のメモ帳に、赤ペンでごにょごにょ書き込む。
字が汚いので、寝て起きると何書いてあるんだか読めない。
読めても断片的過ぎて何を思いついたんだかわからない。
ダジャレが書き連ねてあったりすることもある。何を考えてたんだかわからない。
酒を飲んだときの記憶はほとんど失わないのだけど、メモ作りをしてるとき前後の記憶ほど怪しい。
「覚えなくて済むからメモに書くんだ」
とはインディ・ジョーンズ3のインディ親父の名台詞なのだが、まったくもって同感。
イデアのためのメモに限らず、原稿にいっぺん書き落とすと、もう覚えていなくて済むので、すっきりと忘れられる。
逆に、書かないでいるといつまでも忘れられない。それで、なんだか凄く厭な気分になる。


怪談は嫌い――というのは今に始まった話じゃなくて、もうずっと昔からことあるごとにそう言ってる。それなのに怪談を書く理由は何故なのかと言われたら、そりゃもう「一度書きさえすれば、あの厭な話を覚えていなくて済むから、忘れられるから」であるように思う。僕の場合。
人に話せない話を、手紙(メール)という形でまとめて僕などに送って「書いたらすっきりしました」と、晴れ晴れとした顔をする人がよくいるのだがw、その気持ちはよく分かる。僕も手元にそういう話が溜まってくると厭で厭で仕方なくなり、とにかく早いこと文章に起こして、どこかに捨てるか埋めるかしたくなる。できるだけたくさんの人の目に触れるところに放り出して、「ああ、その話知ってるよ」と入ってくれる人が増えて、自分だけが知っている話――とかでなくなったほうが、気が楽になる。
そんなわけで、嫌いだからこそ書かないで溜め込むのが怖いんだよ怖いのがやだから仕事以外でまで怪談読みたいとは思わないんだよ、という論理はなかなか分かって貰えないorz


そんなわけで、メモを作る。
そういえば、忌火起草の百八怪談を書いてたとき、忌火起草本編を書いてたとき、怪ダレの話を書くためのネタを考えてたとき、ダムド・ファイルリストのときなどなど、実話ではないお仕事をするときは、だいたいこういうメモ作りをしている。短い話の場合は、キーワード書き連ねだったり、俳句みたいな一行メモだったりすることが多く、忌火起草本編のように長大なストーリーの場合は、大きめのノートを見開き単位でぐりぐりと真っ赤にするような感じでメモを作る。
アウトラインエディターも並行して使うけど、アレ使ってるとアイデアをメモってるつもりがいつの間にか細部を書き始めちゃっててw、シノプシスの前段階を作るのには向かないなと思ったorz 紙に赤ペン。これっすよ。アナログ。


実話を書くときは、既に取材メモやメールで伺った話というのがあるのだが、それを実際に書き起こす前に作る構成メモは、逆にアウトラインエディターが大活躍する。
これは、伺った話やそれを書き留めたメモが、記憶や時系列が前後したり記憶に重複があったりと煩雑な状態に置かれているからだろうなと思う。出来事ごと、セリフ事、リアクションごとに並べ直していくと、足りない個所が浮かんできたり奇妙なことが見えてきたりするわけで、実話怪談のメモ作りと実話ではないお話のメモ作りは、その目的もやり方も全然違うよなー、と思った次第。
元々雑誌記事主体ではあったけど、実話じゃないお話は、10代から20代前半の頃までに転げ回るほど書いていた。そういや、昔昔の大昔、ショートショートランドという雑誌が創刊された直後に大いに影響を受けて、投稿なんかもしたことがあった。もちろん梨の礫なわけなのだがw、あれに影響を受けて一生懸命ショートショートのようなものを書こうとしてた連中は幾らもいたものだった。
もちろん、今読み返すと「ぎゃー」というほどの出来なんだけど、熱気みたいなものは十分に伝わってくるというか、小説とかそういうのは周りが見えないくらい自分のことを意識しすぎないと、そうそう書けるもんじゃないよな、と20代前半の自分の作を見ると思う。その熱気を歳を重ねても維持していき、しかもそれだけで食っていこうってんだから、小説家というのは本当に凄い生き物だよなというか、度胸あるよなあ、と尊敬しきり。


そういうわけで、今は実話じゃないもののメモ作りシーズン中。
15年前、20年前の熱気が、まだほんの少しでも自分の中に残ってるだろうかという自問自答と、生臭い思惑と青臭い熱情とが交差する様子をもうじき間近で見られるようになるんじゃないかと思うとやっぱりちょっとワクワクする。