書いて書いて書きまくった

今だって大してうまい気の効いた文章を書けているわけではないのだけど、他人様の原稿の添削やら推敲やらをしつつ、自分の文章の基礎が出来たのはどこだったか、とちと思い返してみた。


もともと雑誌記事を書いてたので、「決められた字数の中に、必要最低限のことを押し込む」という訓練はよくやってた。編集の現場には「前割(先割)」「後割」という言葉(だいたいこれに類似した言い方)があるのだが、これは前割(先割)=デザイン先行、後割=原稿先行、というような意味。

原稿先行の場合というのは、これは記事が主役であるような場合、連載小説など、原稿を書く人のほうが強い(というか偉いというか)ような場合、記事内容がレイアウトより優先される場合はこちら。原稿が揃ってから、それに画素材を合わせてデザインを始めることになるのだが、文字数が多すぎる場合は画素材を小さくするとか、文字級数(フォントの大きさ)を小さくするとか、そういう感じで調整していく。

一方、デザイン先行の場合は、デザイナーが先にレイアウトを作って、それに合わせて題字とか素材が入るスペースとか文字数とかも決めてしまうというもの。写真やイラストと大雑把なコンセプトまでが決まっていて、それに基づいて書かれたラフに沿って、中にどんな原稿が入るかが確定する前に、デザインは出来上がってしまう。
ので、ラフの時点で「本文は○○○について書くので、○文字くらいは欲しい」と一応のリクエストを出してみたりするんだけど、デザイナーがアート志向の大先生だったりするとw、こちらの要望と随分違ったものが上がり、しかも誰も反対できないもんだから、その字数の中でどうにかするしかなくなる。


情報誌の場合は、定番のコーナーになってて、中身の変更があまり利かないこともあって、デザイン先割でどんどんデザインを進めてしまい、記事内容がその字数に合わせて書くということになる。
20字×32行でとか、10字×10行で、とかそういうの。
後割で進める仕事と違って、こういう雑誌の記事仕事というのは、一種町工場的意味での職人技に近く、5W1Hを全部突っ込んだ上で通り一辺倒ではない記事の面白さ、ライターごとの持ち味を出さねばならず、さらに言えば指定された字数にできるだけぴったり収まるのが良いとされる。
わかりやすい例で言うと、雑誌の星占いのコーナー。よくできた星占い記事というのは、27〜30字×15行くらいのスペースに、みっちりぴったりと収まっている。映画の紹介記事、タウン誌の情報記事なんかもそうで、用意された文字数が少ないものほど、ぴったりきっちり押し込む技術というのが求められる。
加えて、雑誌記事は締切が猛烈にタイトで、ヘタすると「今日頼まれて、明日取材して、明後日までによろしくね」なんてのもザラにある。とにかく急いで、しかしピッタリに書かなきゃならんわけだ。これのおかげで猛烈にタイピングが早くなった。*1


このぴったり書くというのはちょっとコツがあった。同じ言葉でも、違う表現をすることで、単語単位での字数増減ができる。例えば、「目撃する」を「見る」と言い換えれば2文字浮く。「目撃する」を「視界に捉える」と書けば2文字増やせる。
もちろん、その記事全体の文体というか作風も揃えなければならないわけで、やたら砕けた書き方をしている中に一個所だけ「凝視する」なんて入れたら不自然なので、そういうことも考えて使い分けをする。つまり、それだけ類語のボキャブラリがたくさん求められることになる。特に、よく使う動詞と形容詞のボキャブラリはかなり求められた。他の何かに例えるというのは楽な逃げ方なんだけど、そういう逃げ方をするときは必ず「まるで〜」と書かなければならなくなるので、読み返すと文章が「まるで」だらけになっていて没になったりする。
抽象的に言えば創意工夫ということなんだけど、要するにボキャブラリをどれだけ多く持てるか、もしくはどれだけ多くのTPOに合わせた言葉の使い分けが出来るかというのが、雑誌記事では特に強く求められた。
早く、大量に、多くのボキャブラリを使い分けて、ぴったり書くという訓練を、毎月毎月来る日も来る日もやってたわけで、これが基礎になってないはずはないのであった。


これは他の分野にも言える話で、数をこなすというのは結果的に自分の癖を見つけ出すためにも必要なんじゃないかなと思ったりする。音楽で、よく○○○節って言い方をする。小室っぽいとか、桑田っぽいとか、中島みゆきの曲は当人以外が歌っていても一発でわかるとかw、そういうような意味で。
これは、その人の好みの音、コード進行というのがあって、変えよう変えようと意識していても結局、たくさん作れば作るほど、使い慣れた(そして当人にとって心地よい)音選びになってしまうため、結局そこに行ってしまうということなのだろうと思う。
これが黄金律というか、「またそれか。でもそれ好き」に落ち込めば、定番の武器になるのだろうけど、そうではない場合、「またそれか、もう飽きた」に落ち込むと、マンネリと言われてしまう。
ひとつひとつを作ってるときには、自分が過去に作ったものと似てるなんてことには、案外気付きにくいものだ。その時点では最新で最高で傑作だと信じてw書いているからだろうと思う。そして、少しずつしか書いていないと、自分が似たようなことを書いているということにはなかなか気付かない。
短期間に大量に書いて、大量に自分の文章を読み返してみると、いつも同じような言い回しをしたり、似たような比喩ばかり使っていることに気付く。長期間に少しずつでは気付かないんだこれが。
短期間に大量に書くためには早く書けなければならず、早く大量に書くには、書く口実が必要だ。
雑誌の仕事をしていた頃は締め切り日というのがあって、それまでに書かないと次のものを書く時間がなくなる。締切に間に合わなければ次からは仕事が消滅することになるわけで、たいへんタイト&ピーキーであった。


今、もう一回雑誌をやれとか雑誌の編集やれとか言われたら泣いて謝ると思うw
角川時代とか、救急車で運ばれてく人を何人も見てるしなあ。
まあでも、この「とにかく一杯書く」「たくさん早く書く」「ぴったり書く」というのは、「教えられた通りに最短距離で正解だけ書く」というのよりは、柔軟性が身につくことに繋がった。
雑誌というのはその記事、その本、その主題によって、オーダーがコロコロ変わる。メーカーの新製品を持ち上げる方向で書く場合もあれば、ユーザーの心理を代弁するような書き方が要求される場合もある。つまり、クライアントというか記事のコンセプトやオーダーによって、スタンスやスタイルをどんどん変えることが要求される。
芸術家が「自分のスタイル」を追究するのと比べると、ある意味で対極にあって、自分のスタイルを追究することよりも「毎回違うオーダーメイドのスタイル」に合わせて柔軟に変えることができるのが、職人的ライターということになる。
もちろん、自分の独自スタイルを売りにする署名記事ライターだっているけれども、そういう人は旬が過ぎるといつの間にかいなくなっている。飽きられるからだ。
署名をやめて匿名に戻ってるだけの場合も多いのだけどw、雑誌の多くは今も名もなき職人ライターによる、「見事なくらい過不足のない記事」によって埋められている。


署名記事というのは、際だった個性というのがあるほうがよいとされる。されるが故に、自分で自分に個性を与えようとしてしまうのだけど、そんなことしなくてもそれぞれのライターには個性がある。
意識して身に着けるのが個性ではなく、「どんなに捨てよう、止めよう、治そう」と思っても、治らないのが個性だと思う。意識して取って付けた個性ではなくて、治そうにも治らない癖というのがその人の個性だとする。自分にそういう個性があるということを自覚するためには、結局のところ「短期間に大量に早く書く」ことしかないわけだ。
書いて書いて書きまくるしかない。


実話怪談は取材ありきなので、実話怪談でこれをやろうと思ったらこれを成せるだけ大量の取材ができるか、ネタを無尽蔵に持っている人でなければ厳しい。故に「たくさん取材できて、たくさん書ける人が残るよ」ということなのだった。
一方、そういう意味での取材が必要な実話怪談ではなく、ある程度までなら取材しなくても(というより、一度の取材から複数のアイデアが得られるなら)書ける小説のほうが、「短期間に大量に早く書く」ということには向いているように思う。
過去、多作の作家は珍しくない。有名になった作品以外の大多数が駄作か凡作という巨人だって珍しくない。デュマとか一茶とかw
たった一作の傑作を生み出すためには、大量の習作や駄作・凡作をも捻り出す生産力とか、早さがないとダメなのかもなあとか思うのはこういうとき。


なお、十分な執筆機会を得て、成熟に向かっているベテランはこの限りではない。そういう人は、自分の能力も癖もわかってて、機会もある。書きたいものをじっくり大切に書くべきだと思う。ベテランてことは歳だって若くないし、残りの持ち時間だって有限なんだし、すべきことをするべきだろう。

一方、この「短期間に大量に早く」というのは、まだ入り口の外にいる人向け。言わば、下積み時代の基礎練習レベルの話だと思う。
レスキュー隊員や自衛官は、反復練習を積むことで、いざというときに頭より先に身体が動くようにするというけど、文章の基礎訓練というのもそれに似ていると思う。ただ、反復練習だけじゃダメなんで、いろいろな題材を一気にたくさん書けるということが求められる。
っていうか、しておいて損になること無駄になることはあんまりなかったんじゃないかなあ。


文章力っていうのは、要するに書けば書いただけモノになる。*2
そして、できるだけ他人に読ませて、あれこれ言われたほうがいい。一人の人だけでなく、老若男女専門家から門外漢に至るまで、視点の違う意見をどんどん聞いて、それからまたたくさん書けばいい。
文章力は手に入るけど、手に入った文章力で何をするか? っていうのは編集者からでは教えられない。こればっかりは当人が「自分はこれを書きたい」というモチベーションを維持し続けていかないことには。
雑誌系何でも屋ライターは何でも書けるけど、「これについて書きたい」というのはあまりない人が多い。そのへんが、「これについて書きたい」という願望が強いルポライターや作家などと、職人ライターの間にある隔たりなのかもしれんなあ。
両方を往来してる人とか、両方兼務してる人もいるので、どっちがどっちとは言わないけど(^^;)

*1:料金従量制の時代にテレホ以外でチャットしてたからというのもあるw

*2:書いた分しかモノにならず、うっかり成長するとか努力しなくても隠れた才能が開花するなんて都合のいいことはないし、読まれることを意識せずに誰にも見せずに書いたって成長しない。