忌火起草

セルフパロディをやりたくてうずうずしています。
でも社会人としてそれはいかがなものか、ということで我慢。


それはそれとして、忌火起草を巡る「恐怖」の評価については、常々思ってきたところの反応が、ほぼ想像通りに出たなあ、という感想もなくもない。


男性*1は(そして歳を重ねるほど)、恐怖を支配して飼い慣らしたがる。恐怖の原因を解明し、理由を知りたがる。怪異が起こるメカニズムを解明することで、恐怖を無効化したがる。が故に、メカニズムが説明できないものに恐怖を感じない。その場合、「わからない」となるだけで、「怖い」とは感じにくい。
男性にとって、「わからない」ことは恐怖を掻き立てない。わからないままで思考停止/感情凍結する。
男性にとって闇(解明されない謎)は怖くない。
恐怖の原因に肉薄することで、より酷い目に遭う可能性を帯びていても近付こうとする(身の安全よりも恐怖の原因を解消しようとする)という行動を取るのが男性。


女性*2は(そして歳が若いほど)、恐怖を拒否して遠ざけたがる。恐怖の原因に近付くことを嫌がり、原因/理由を拒否したがる。知らなくていいことは知らずに済ませたいと思う。起きている現象について恐怖を感じ、メカニズムが説明されるかどうかは恐怖の喚起に直接関係しない。
女性にとって、「わからない」ことは恐怖を掻き立てる。わからないことに恐怖を感じるが解決しようとはしないため、恐怖を感じた時点で思考停止/感情凍結する。
女性にとって闇(解明されない謎)は怖い。
恐怖の原因を遠ざけることで、恐怖の原因は解消緩和されないが、より酷い目に遭う可能性からも遠ざかり、身の安全を優先する行動を取るのが女性。


恐怖というのは「迫りつつある身の危険」に対する警告シグナルであると思う。まだ何も起きていないのに総毛立ったり、鳥肌が立ったり、嫌な予感がしたりするのは、「これから酷いことが起こるから近付くな、関わるな、注意せよ、そして逃げよ」という予告であり、恐怖は生命の危機を自ら救うための予備行動を取るための予告感情であると思う。


だから、「恐ろしいもの」を感じたとき、それを無力化しようとするのではなく、そこから自分を遠ざけることで安全圏に逃れようとするサバイバリティは女性のほうが高い、というのはどこか納得がいく。
逆に、「恐ろしいもの」を感じたとき、それを無力化しようとして近付いていってしまい、結果的に危険区域に自ら関わってしまうサバイバリティの低さが男性の行動に見られるように思う。


ホラー映画、が流行るのは女性が「キャー」と言うからなのだが、男性は「キャー」と言っている女性の反応を見て、「ああ、これは怖いということなのだな」と理解する。中には女性と一緒に見にいっていないと、怖いとはどういうことかを理解できない人もいる。そして、理解できないもの=わからないであって、わからない=恐怖ではないため、理解できないものは怖がれない。*3


これが歳を重ねると社会的身分の制限から、人前で幽霊を怖がったり怪談を「真に受けたり」するわけにはいかなくもなる。それまでの経験から、自分なりに納得できる理由付けを当てはめるようにもなり、納得できないもの、理由付けができない理解の範疇にあるものは「わからない」で終わってしまって、恐怖を感じるべき対象ではなくなってしまう。


斯く言う僕も男でもうぼちぼちおじさんでもある。加えて多くの怪談を聞かされ書かされしてきている。ということは、怖いというのはどういうことかということに対していずれ麻痺していくのではないか、という気がしなくもない。歳を重ねるほど、人前でビビってなんぞいられなくなる、というそういう。
「超」怖い話は担当編集者が若い女性であった(勁文社時代の立ち上げ編集者も若い女性でした)という経緯がある。書いている面々はもうみんなオッサンになってしまったけれど(^^;)。


ともあれ、言えるのはこういうこと。
怖がり・ビビリは、危ないところに近付こうとしないので長生きする。
豪胆自慢・勇気と合理性に富んだ人は、危ないところに近付いて自力で解決しようとリスクを背負うので早死にする。
恐怖を疑似体験するゲームや書籍や映像作品というのは、起こりうる危険を事前にシミュレーションするために存在するのではないかと思う。決して恐怖感を麻痺させるために存在するというわけでもないのだが、恐怖を売り物にした作品と自分が向き合ってみたときに、自分が何に対して脅威や危険・危機を感じるタイプで、何に対しては麻痺・鈍感または無防備であるのかというのを考えてみるといいのかもしれない。
その分野に対して強い、特に恐怖を感じないということだとすれば、裏を返せばその分野に対しては、常に油断をしているということでもある。


油断の果てにあるのは、因果応報を味わった後の苦しみ。
スピード狂は、事故る瞬間、事故って自分・他人の手足や命が失われた後でなければ、自分が事故を起こすことを想像できない。
恐怖によってアクセルから足を離すのは、事故後が想像できるからだ。


恐怖を題材にしたものを見聞体験したときは、このように恐怖を感じないときこそどこかに自分だけがハマる落とし穴があるのだ、と考えておくといいのかもしれない。
恐怖商品の効能っていうのは、そんなもんだ。

*1:または男性的な思考の人

*2:または女性的な思考の人

*3:でも、理解できた時点で恐怖の原因が克服されているわけだから、それはもう怖いものではなくなっているのだ(^^;)

不具合

有袋類からきたメールに、「はやぶさ」のバッテリーの不具合とその回復の話(http://www.isas.jaxa.jp/j/mailmaga/backnumber/2007/back163.shtml)があって、それで思い出した話。


不具合、という言葉は現在広く使われている。
機器類が思い通りの性能を発揮しないとか、実験が想定通りにいかないとか、予定調和的に計画していたことが予定通りにいかないとか、そういう「予定にいささか及ばない」というニュアンスで、あらゆる分野に対して使われている言葉だ。
これだけ広く知られている言葉でありながら、この言葉の由来に言及している例が非常に少ない。例えばGoogleで「不具合」または「不具合 由来」「不具合 語源」と検索しても、即座には回答が出てこない。
僕の記憶では、この言葉は大正以前というか、戦前にはない言葉だったという話がある。
由来について結論から言ってしまうと、これは日本のロケットの父である糸川英夫博士が、ロケット打ち上げの失敗についての会見で使ったのが最初らしい。どのロケットの打ち上げのときだったかについては、詳細な資料が本棚のどこかに埋まっているため特定できないのだが、会見でマスコミを前に「打ち上げは失敗」と言ってしまうと責任問題に発展して世論が悪化したり、続くロケット打ち上げ計画に対して支障が出る恐れがあったため、苦肉の策として「いささか具合が不味い」「若干の不具合があった」という表現をすることで、「失敗」という言葉を避けたのだという。
確か、これは「日本のロケット(野本陽代/日本放送出版協会)」という本の一節に糸川博士の紹介と合わせて載っていた話だったと思う。
糸川博士の言葉らしいことは多分間違いないんだけど、今ひとつ曖昧で断言できないのは、その原典資料「日本のロケット」が、今手元に見つからなくて確認できてないから。その発言は業界系新聞記事の囲み記事の見出しにも使われたらしく、その写真も見た記憶があるのだが……。
と思ってちょっと調べたら、不具合という語は直接見あたらなかったけど、http://garlandjunction.web.fc2.com/060422.htmに、「糸川博士は失敗を失敗と言わずに想定内という天才だった」「難しい語をわかりやすく説明して予算を取るのがうまかった」というエピソードが紹介されている。
日頃、初心者向き解説記事や門外漢の重要人物に必要性を説くような交渉事に関わることが多いだけに、「わかりにくい話をうまく説明し、門外漢の財布の紐を緩め、プロジェクトをスムーズに進める」という一種詐欺のような(褒め言葉)手腕は、ほんとに感心するというか常に目指したいなと思ったりする。


現在では「不具合」という言葉は家電品の不調からゲーム機の故障からパソコンパーツの相性問題から何から、あらゆるシチュエーションで使われている。でもこの言葉がロケット開発技術者から出てきた言葉らしいってことは、ほんと知られてない。
原稿を書いていると、ときどきむらむらと由来や裏打ちや信憑性を調べたくなってしまうことがある。もちろん、嘘書いちゃいけないし、突っ込まれて崩れるようなことを書いちゃいけないという自負心というか恐怖心wがそうさせるんだけど、単純に「○○○ 語源」では出てこないキーワードの背景を調べるときはホントに大変。でもそれが楽しく、原稿そっちのけで当て所ない検索の旅に逃げてしまったりもする。いくないいくない。


さて、冒頭の「はやぶさ」のバッテリー不具合の件。
そのはやぶさはとある小惑星を目指して旅し、ランデブー後の地球への帰還の途上に不具合に見舞われるわけなのだが、はやぶさが目指した小惑星は、この不具合の一件もあって一躍名を挙げた「小惑星イトカワ」。不具合という言葉を作った糸川英夫博士の名を取ったものなのだが、やはりこれは歴史の皮肉というか糸川博士はほんとに不具合と縁が切れないなというか、不具合の積み重ねをひとつひとつ解決していくことが、ロケット開発の千里の道なんだなとか、はやぶさの不具合が発覚したときにも、まあそういう宇宙開発ロマンに身悶えした記憶がある。
ロケット開発は失敗を重ねることで、「できないことの限界」「できること(やっても大丈夫なこと)の限界」を見付けることができる。効率を最大化するためには、効率の限界を知ることが重要で、つまりそれは「やりすぎたら壊れる」という破壊限界を知ることでもある。もちろん、限界が判明する=その装置は壊れるということなわけで、傍目にはそれは「失敗」に見えるのだが、その破壊によって限界がわかれば、次は失敗しないで成功できる――というような非常にポジティブな考え方であったという糸川英夫博士は、僕の尊敬する偉人リストの上位に常に入っている。


まあ、若干山師臭いところもあったらしいんだけど(笑)、様々な技術や才能がばらばらに存在していた初期のロケット工学分野にあって、そうした未連携の技術を総合することでロケットという技術の結晶を具現化するエンジニアリング/システムダイナミクス/アストロダイナミクスの草創期の一人でもあるらしい。
Wikipediaだけを見てもそういうことあんまり書いてない。たまたま自分が知っている話だったから気づいたことでもあるかもしれないけど、wikiを鵜呑みにしてそこで終わっちゃだめだよね、というあたりをオチとしたい。