文庫は一時休止して雑誌の仕事。
とりあえず2頁。
あともう1本コラムがあったはず、だが、まだ書いてない。
書こう。催促されたら<自発的に書け
というか、それは楽しい仕事なので、箸休めとか、デザート用にとっといてある。
 
 
仕事には、楽しくて嬉しい仕事と、辛くて逃げ出したい仕事がある。
だいたい、好きな仕事は評価されず、辛い仕事ほど好評価だったりする。
最近は二本柱のうちの一方は、好きでかつ評価もされていて嬉しい。
怪談はおかげさまで評価をいただいているが、どちらかというと辛い仕事。
怖いし、凄く疲弊するし。
 
歴代の編著者が「怪談はもうおなかいっぱい」と言って去っていくのには、様々な理由があったと思う。それについて真意は当人だけにしかわからないし、僕は先駆者が残した当時の言葉からそれを類推するしかないのだが、
「書くべきことはもう書いたから」
「これ以上は踏み込んではいけない気がする」
というものだったように記憶している。
お一人は、「集めてまで書こうと思わない。今、自分が抱えているものをはき出せた、というだけで充分」と仰っていたし、もうお一方は愛した山で死を覚悟するような事故を経験されて「もう潮時だ」と決められたようだった。
両人が去られた折、非常に残念だなあと思った。今もって若輩の僕には両人が怪談を辞した理由を真に理解できているとは言い難いが、怪談というのは書き手を蝕むものなんじゃないのか、と疑った初期の記憶はそのあたりにある。
 
関わり続けている怪談は、編著者の代を重ねて14年、16巻になる。
これほど長い間同一タイトルで続けられた怪談というのは、たぶんかなり希有な部類に入る。
これまで、怪談本というのはあまり同一タイトルでは続かないものだったらしい。
著者が飽きて(ネタが尽きて?)続かなかったとも聞くし、2冊も出せば「新鮮味が亡くなって」版元から方針変更を求められたり。僕の関わっているシリーズでも、以前の版元では「新鮮味」「変化に乏しい」といった注文が付いたことはあった。(が、できることしかできない、ということでスタイルは変えなかった)
怪談というのは、書く側が疲弊する。
だから、そうそう量は書けなかった、ということなのかなあと思う。
ただしこれは、80〜90年代の話だが。
 
ホラーブームと相まって、かつてのミステリー、サスペンスに次ぐものとしてホラーが脚光を浴びる時代となった。世にはホラーの文庫、ブランドが飛び交い、それを専門にした作家も幾人も出、そうした中の代表格のような京極堂先生が直木賞を取ったりもされた。
怖い話を専業で書いて、それが成り立つようになった現代以降、怪談を書き続けるという人も増えていくのかもしれないなあ、と思う。
そういう人たちが、できるだけ長命で、なおかつ現役で怪談を書き続けてくれたらいいなあと思っている。怪談をやっても命に別状なしの見本、証明として。