新耳袋第十夜

今、実話怪談界はこの本の話で持ちきりなのだろうと思う。
「超」怖い話に先駆けて世に出た不条理怪談の走りであった新耳袋。多くの秀逸な書評が最終夜を褒め、また、その活躍を注視してきた人々の賞賛が集まっているものと思う。「超」怖い話の相方とさせていただいている夢明さんも、それについて触れておられた。
そんなわけで、新耳袋の華々しい評価は今さら僕が改めて語るまでもない。
そして、僕にはその内容について語る資格がないのである。
 
木原氏、中山氏は1960年生まれの45歳。樋口さんも45歳。夢明さんが44歳。
現代の実話怪談のトップランナーたちは、奇しくもほぼ同世代であるらしい。
そして、その下はよくわからない。
よくわからないが、先日こう言われた。
「加藤さんが最年少、最若手なんですよ。実話怪談の」
僕は実話怪談界のそうした事情に詳しくないから他の著者の方々についてよく知らないのだが、そういうことらしい。
最年少の怪談屋として、年長・最重鎮の怪談屋と時期を同じくして仕事ができた。
喜ばしくもあり、また、そのことそのものが恐ろしくもあり。
 
僕は、「怪談書きにあるまじきヘタレ、怖がり」を標榜しているが、これがまた本当に洒落でも看板でもないのであって、他人様の怪談を読むのが怖いのである。書いてある内容も怖いであろうし、夜眠れなくなりそうだし、また、目も眩むばかりの才能が同じ土俵にいると知れたら、それだけで多分僕は腰砕けになる。畏れ多くも畏くも、「自分が誰かと比べられている、自分と比べられている誰かのほうが遙かに才能がある」という事実に耐えられないだろうと思う。それも怖い。だから、見ない。見られない。怖くて。
僕は、そういった意味で、恐らく実話怪談界でもっとも類書を読んでいない、不勉強な怪談屋なのではないかと思う。読むのは怖いから読めない。読まずに評するのは失礼に当たる。だから、僕は怪談本について語る資格がない。
 
だから、僕は僕にわかることだけを述べてみたい。
「超」怖い話は、勁文社時代はそれほど注目を集めたビッグタイトルではなかったと思う。
手に入りにくいこと、同じシリーズタイトルで続けていたこと、休眠中に復活を求める声の中から、いつしか「西のシンミミ、東のチョーコワ」という賛辞をいただいたことが、「超」怖い話の二度目の復帰に弾みを付けたのは間違いない。新耳袋というビッグタイトルと比較されることが、「超」怖い話を相対的に高めていった、というものだ。著者として言うなら、そんな大きなライバルを絶えず意識していられるようなゆとりはなかった、と思う。
〈集まってしまった怪談を吐き出す場を、もうこれ以上失わないぞ〉
僕はそれだけで精一杯だった。
知っての通り、「超」怖い話は、諸般の事情により二度休止し、二度蘇った過去を持つ。であるが故に、シリーズの終了=シリーズの死を激しく厭う。二度の臨死を経た今、少なくとも僕はシリーズを死なせないこと、命の灯火を繋ぐこと……アンデッドのような不死のシリーズとなることだけに執着している、と言ってもよいのかもしれない。
 
新耳袋はどうだろうか。
新耳袋は永遠の生ではなく、限りある命と有終の美を選んだ。
しかし、新耳袋終了の後も、木原氏、中山氏は何らかの形で怪談と関わり続けていかれると思うし、そうしないはずがない、と僕は思っている。
新耳袋」というシリーズに幕が下りたのは確かだが、それは新耳袋を構成していたものの死を意味するわけではない。木原氏、中山氏といった、そのエッセンスを作り続けてきた、言わば魂は死んでいない。むしろ、「新耳袋」という肉体から解き放たれ、より自由に恐怖の形を追い求める段階に昇華していくのではないか、とも考える。
新耳袋はまさしく「霊」になったのだ。
 
昨今、「幽霊より人間のほうが恐ろしい」というのが、現代ホラーのキャッチフレーズとして定着した。リアルな事件の猟奇性が、広く知られるところとなったことも大きいだろう。
だが、依然として「幽霊の怖さ」が損なわれているわけではない。
では、我々はなぜ幽霊を恐れるのか?
それは、肉体という器の限界、束縛から解き放たれているからなのではないか、と思っている。
つまり、幽霊とは自由なのだ。あらゆる制限から解き放たれた自由自在な存在であるが故に、肉体の束縛を受ける生者にとって幽霊ほど恐ろしいものはない、ということなんじゃないだろうか。
「超」怖い話は、そして後に残された我々は「肉体」に固執した。
自由自在を手に入れ「幽霊」となった新耳袋は、恐らく生ある我々を今後もずっと恐怖に陥れ続けるのではないか、という気もする。
 
これこそ新耳袋が最後に残した「恐怖」の置きみやげなのではないだろうか。
厄介なことだ。