資料当たり

どんな仕事でもそうだが、書いている時間よりも資料を当たっている時間のほうが圧倒的に長い気がする。
例えば、聞き取りや電話、度重なるメール交換、ときにチャットなどいろいろな方法で話を伺う、またはそれに費やす時間のほうが書いている時間より圧倒的に長い。伺った話を整理し直す時間も長ければ、その背景を把握するために地図や年表を眺めている時間もバカにならない。その労苦にノンフィクション、フィクションの差はないわけで、むしろ書き始めてしまってからのほうが楽(楽しい)ときすらある。(稀に)
それでも、図書館を行ったり来たりしなくて済む分、我々は恵まれていると言わざるを得ない。郷土史家の論文の断片であったり、無償提供されているマップであったり、文献図面の写しであったり……実際に足を運ばないとわからないものもあるが(たとえばご当地の言葉や雰囲気は、文献ではどうにもならない)、楽になっていることに代わりはない。
ネットって便利だなー、と思う反面、検索の上位にヒットしたものを一個見れば事足りるかというと、そういうこともない。
検索語の言い回しを少しずつ変えて丹念に探し、少しでも触れているものがあれば丹念にチェックし、必要に応じては本を買い、借りられそうなら出向く。
そうやって資料の相互対照をして整理を進めても、それだけでは単に「資料集」を作ったに過ぎない。そこからまた、必要不要に応じてつまみ食いをし、自分の書いている文章の裏打ちにしていくわけで。(資料の文章をそのまま孫引きしたら単なる盗用になってしまうけれども、資料の意図を知らないままでは単なる誤用になってしまうわけで、そのへんのさじ加減は実に難しい)
このところ、資料当たりに待ち時間(笑)を割いているのだが、漂うようにデータを漁っているときは案外楽しい。つまり勉強が好きなのだなあ(^^;)
 
これをまとめて、自分の文章に反映させるという作業がなければねぇ、と思ったり。
試験や論文提出さえなければ、勉強ほど楽しいことはないよな、と学生時代にも似たようなことを考えたことを、少し思い出した。