打ち合わせと戦略的駄話

本日、打ち合わせが1件。
上原さんをある版元に推薦しに行く。
仕事は成立するようで、紹介者としてホッと胸をなで下ろす。
 
その後、その版元さんとは別の会社の仕事について、だらだらと戦略的駄話を3時間ほどする。ネタだし、アイデアだし、よく言えばブレスト、悪く言えば「馬鹿話」である。
書き物の仕事をしていると、ときどきアイデアに詰まったり、またはその逆に「別に今の仕事にすぐに必要ではないが、思い立ってしまったアイデア」が、蛇口が壊れた水道のようにだだ漏れになることがある。
イデアは一人で考えるという人もいるかもしれないが、僕はどちらかというと「思いつき」をメモしつつも、他人にまくし立てる(またはメールに書きまくる)ことで思いつきをだんだんと整理したり、余計なことをそぎ落としたり、その逆に不足分を補ったりして形にしていくタイプ。その過程でも、「アイデアに詰まる」「とりたてて必要のないアイデアが泉のように湧く」ということが起こる。
普段は家人に「ねえねえ、聞いてくれ!」と訴えるのだが、「はいはいワロスワロス」と扱われてしまい、さらには「今言わないで、書いてから最初に読ませて」と……。
もちろん書いたら書いたで読まして「どうだった?どうだった?」と聞くのだが、アイデアの段階でもやっぱ聞いて欲しいわけである。
でも、家族というのはそんなもんを毎日聞かされた日にはやっぱり鬱陶しくなってくるのだと思う。「この職業的苦しみはなかなかわかってもらえないよね」と、上原さんと納得する。
 
「作家が駄洒落をのべつまくなしに言うのは、屁をこくようなものである。仕事に必要な資料を読んだ後に、どうしても直接仕事には不要なアイデア=駄洒落も思い浮かんでしまう。そうした体内に残った無駄なものを排出する行為は、自分の意志とは無関係に必要なものなのだ」――若き日の樋口明雄氏の弁
「作家というのは、思いついたことを誰彼構わず聞いて貰わなければ落ち着かない生き物だ。パソコンや原稿用紙に向かって原稿を書いているときというのは、パソコンや原稿用紙に自分のアイデアを自慢して聞いて貰っているのと同じだ」――飯田橋にて上原尚子さんとの駄話で出た話。
 
パソコンや原稿用紙はその場で言い返さずに最後まで黙って聞いていてくれる。
モノカキにとって、白い原稿用紙は永遠の敵であるが、同時に沈黙を持ってあらゆる考えを肯定してくれる大切な支援者でもあるのである。
 
数時間の駄話でいろいろアイデアのきっかけが拾えたのは大きな収穫であった。