傑作佳作
今さら目新しい話ではないのだが、傑作というのは誰にでも書けるものらしい。
人は「何について書くか?」と自問したときに、まず自分がもっともよく知っているものを、そのテーマに選ぶ。自分の得意ジャンル、自分の好きなこと、自分がよく研究していること、などなど。
ぶっちゃけ、作家自身がもっともよく知っている自分自身とその体験を題材に書かれたものには例外なく傑作が多いんじゃないかと思う。
そして、そういうテーマは一番最初に使ってしまうことでもある。
若くしてデビューされた新進気鋭の授賞作家が、その後、自分のことを語った後に語るべきテーマを見つけることができないまま消えていくのは、そうしたことが一因ではないかとも思う。いちばん書きたいことが、自分の経験の中にあることに収まってしまうと、自分自身が新しい経験をする(=自分を痛めつける)か、自分以外の誰かが重ねた経験を学び取りに行く(=自分以外の誰かを取材をする)かしないと、書くネタがなくなってしまうのである。言われてみれば単純で、かつ当たり前で、今さらここに書くまでもなく語り尽くされてきたことだ。
書き続けてきた、そして今後も書き続けていく人というのは、自分についてだけ語っているわけではない。いろいろな出会いであったり取材であったり、そういうものによって「自分がしなかった経験」を吸収しているから書いていくことができるのだと思う。自分もしているつもりだが、自分以上にそれを熱心にしている先人にはつくづく頭が下がることだ。
こうしたことを踏まえて考える。
これから賞を狙いに行く人々が、熱意に溢れ、自分の内にある、自分の経験に根ざした「語りたいこと」を吐き出せば、高い確率で傑作が生まれるだろう。そのうち、てにをはがきちんとしていて、気の利いた文が書ければ案外いいところに行けるんじゃないかって人は、決して少なくない。そのくらいの才能は、誰にでも最初から備わっているものだ。
問題は、その後。
華々しいデビュー、華々しい処女作による賞の受賞。
その後が、ものすごいプレッシャーとなって襲いかかる。
一作目が傑作であればあるほど、二作目以降が傑作ではないことを読者は許さない。自分自身も、一作目よりよい二作目が書けるはずだ、という気負いがあるから、最初から傑作を書くつもりで取りかかる。
が、案外書けないのである。二匹目のドジョウ、または2作続けての傑作って奴ぁ。
もちろん、それが書ける人はいる。
天才であり異才であり才人であり、同時にあらゆることに対して貪欲であり、自分を語るのではなく人を語ることに興味が強い、そういう人が多い。
が、自分頼りで傑作をかっ飛ばした人ほど、二作目に窮する。
二度、三度と続けて傑作を書くのは斯くも難しい。
その意味で、1作目と2作目の間に長いインターバルが取れる環境で書くのが、本当は理想的なんだろうと思う。が、「これで食おう」なんて色気を出したら、そんなことは言っていられなくなる。遮二無二書かなければならない。傑作を狙って自分を語っているだけでは、全然足りないのである。
かつて、実話怪談の世界では「霊感のある人が、自分の体験を語る」という本が主流を占めていた時代があった。今だってそういう本はあると思う。少数派に転落したわけではない。
が、自分の経験を語るのには限界がある。
一年365日、一日も欠かすことなく毎日心霊体験ができるならネタには事欠かないだろうけれども、そんな生活を一生続けろと言われたら、たぶん一生どころか最初の半年で精神に異常をきたすか、そうでないまでも一般的社会生活は難しくなると思う。
そして、ネタが足りないからこちらから出向いていかなければならない。
出向いていっても、狙って「毎回違う種類の心霊体験」なんてできるものだろうか?
霊が見えた! 金縛りに遭った! という、似た体験の再生産以上はなかなか望めない。
でも、「もっと凄い体験はしてないんですか?」と期待されてしまう。
そのうち、「もうねぇよ!」となる。
書くべきこと、吐き出すべきことがなくなれば、もうそれ以上、「自分の体験」を語るために怪談を書く必要はなくなる。
だから、自分自身で体験したという人が怪談を長く書き続けるのは稀なのだと思う。
その意味で、昔から今日に至るまで自分自身の体験談を書き続けておられる方々には、並々ならぬ度胸と胆力があるのだろうと思うし、畏敬の念に堪えない。
超-1では「書き続けていく人」を探している。
人によっては期限付きで書きたいことだけを書きたい、という人がいてもいいかもしれない。うわばみのようにかき集めて書き続けたいという人ももちろん歓迎する。
少なくとも、10年に一度の傑作を一作、1試合に1回のホームランを一発狙っている人には、あまり向かないかもしれない。
松井も悪くない。でも、欲しいのはイチローなのである。
清原では困るのである。