粘りけ

このところ、ずっと怖い話ばっかり書いているのだが。
普段、あんまりじっくり自分の文章を読み返す機会はないのだが、最近は何度もリテイクを繰り返すという、たいへんしんどい(でも充実した)原稿の進め方をしていることもあって、改めて進行中の自分の文章を読み返す機会に恵まれた。
で、思ったこと。
「うわー、僕の書く文ってねちねちして陰湿だなあ」
そういえば、弩2の文章もやたらねばねばしてたなあ。
妖弄記や禍禍、「超」怖い話ではそんなにねばねば書いてないつもりだったのだが。
……やっぱ、ねばねばしてんなあ。
今やってるある仕事の原稿も、すごくねばねばしていて大変弩2ちっく。
そして今まさに遮二無二書いている弩3の原稿は、ある意味で弩2以上にねばねばしている。白濁して泡をまとわりつかせた粘りのある糸を引く、というほどにねばねばしている。
前から「お前は早口だけどくどいよ!」と注意されることがあった。
会話の最中に、あれこれと比喩や例え話を混ぜて、ニュアンスが伝わっていることを何度も確認しないと不安になるのである。
当然、「1」といえば伝わるはずのことを、念押ししながら「10」も「30」も繰り返すわけだから、早口にもなる。どちらかといえばマシンガントーカーである。
が、さほど凄いことは言ってないw 同じことを言うために、違う言い回しで何度も言ってるだけだからである。
それが、文章にも出ている。
怪談を書いているときは、意識しているのはただひとつ。一文を短くするように心がけていること。これは、前述のように、僕の素のスタイルでは、文が長くなるからだ。
それでも粘りは出る。長文(=ひとつの文そのものが長い)ではなくても、ねば、ねば、ねばとしたまとわりつくような感触はある。
これは、好き嫌いが分かれる文章かもしれんなあ、と思う。
なんでこんな文に育ってしまったのかはわからんのであるが、一緒に仕事をしてきた人々や、仕事の題材として指定されてきた内容によって育まれたということなんだろうなあ、と思う。


文体は自分で作るものではなく、素材と環境によって育まれるものなんだな、とつくづく思う。
こんな私に誰がした。