超-1作品集、確定

まずはエントリーblogで第一報をお知らせした通り、超-1作品集(仮)の刊行が確定した。
たぶん、「うわーい」という人と「何を今更?」という人がいるかもしれないので、そのへんの裏話なんかもしてみたい。
当初から「優秀者の作品を収録した作品集を【検討】する」とリリースにはあったのだが、この【検討】というのは具体的にいつ、または必ず、という保証の付いた約束ではない。これはどんな賞でも同じだが、「大賞、該当者なし」というアレがなぜあるのかと言えば、
「応募作品の中でいちばんマシなのは選べるけど、それはとてもじゃないけど商品化できねえよ!ヽ(`Д´)ノ」
ということ。
こうした大会は、当然ながら品質・技術・技芸の善し悪しが問われる一方で、それは「応募作品の中での相対的評価」とは別に、「商品化に耐えうるかどうかの営業的/絶対的評価」という基準が存在する。
超-1を開催してみて、商品化に耐えうる作品が一冊以上編纂できるほど集まらなかったら、当然ながら「検討はしたけど無理でした」という営業的結論に落ち着いていた可能性が高い。そして、実際その可能性はべらぼうに高かったと思う。


まず、応募がどれほどくるかわからない。
「超」怖い話も含めて怪談本の末尾に「読者の皆様の怪奇体験をお知らせください」ってあるけど、あれ書いてあっても本当にこないのである。下手すると年間通じて数通程度。
だから、超-1やります、と告知しても「作品応募がない」可能性があった。
なもんで超-1は動員できる人員も予算もとてつもなくちっこいプロジェクトであったのだ(^^;)

次に、応募作品のクオリティがわからない。
数が100通きても、そのクオリティが商品化に耐えうるものとは限らない。こればかりは、蓋を開けてみないとわからないのだ。「超」怖い話まみれで過ごしてきただろう応募者は、「超」怖い話に汚染された(笑)作品を書いてくるかもしれないし、独自性を出そうとするかもしれないし、それ以前に作文能力がある人がいるかどうかすらわからない。安易に「本は確実に出します」という約束ができたかというと、編集部がうんと言っても営業部が光速で首を振っていた可能性が高い。


今回、応募総数はすでに400を超えている。僕が当初想定した応募規模は150〜200くらい(毎日3話公開×30日×2ヶ月くらい)というもの。が、想定以上の応募のため急遽#1から#2に切り替え200を超えたあたりで、編集部内では「びっくりしている」という声は上がっていたようだ。
事実上、作品集への内定が出たのは300を超えたあたり。


盛り上がりというものは、数字、物差しで測れるものではないのだけれど、少なくとも「応募総数400通以上」という数字のインパクトというものは、応募者・読者諸氏が想像しているより遙かに大きい。

何度も引用した話をまたしよう。
以前、勁文社「超」怖い話が一度目の休眠に入った98年。「今年は出ないの?」という読者からの問い合わせが編集部に押し寄せた。当時の編集部は「今年はありません」と答えた。すると「じゃあ、来年は?」「来年は未定です」。年が明けて99年の1月に「今年は?」という問い合わせが押し寄せる。読者が忘れなかった、読者が出せと求めた。それが、一人や二人ではなかった。会社を動かすほど読者の問い合わせが押し寄せた。
そして「超」怖い話が蘇る。
勁文社が倒産し、竹書房から第三期の復活に入るとき。これも順調な復帰ではなかった。が、ネット上でのおびただしいレビューの存在が、確実に後押しになった。竹書房版第一巻、「超」怖い話Αが世に出たとき「まず、売れなければ次はない」とした。БでもΓでもこの緊張感は続いたが、Αは「冬に出た実話怪談本」としては異例の版数を重ね、現在は「年2回刊」なんて当たり前のように書かれるまでになった。これもまた、おびただしい読者の動きが「会社」というものを動かした結果である。


此度、超-1作品集が確定になったのは、誰あらぬ応募者の力によるものだと思う。
超-1は箱、器であり場であった。機会を提供したという言い方でもいい。
その機会を最大限に生かし、超-1作品集を勝ち取ったのは「応募総数400以上」「商品化に耐えうる作品多数」という実績を、応募者自身が作り出した結果だと思う。
超-1は、竹書房の協賛を得て開催されたものではある。
けれども企業としての竹書房を動かし、作品集という実を実現させたのは、紛れもなく応募者全員の成果であると言っていい。


僕に課された使命は、主催者として編集屋、編纂屋として、作品集を「売れる本」「読むに耐える本」に仕上げることだ。
これが売れれば、次がある。

本は出せば売れるというほど甘いものではない。
単行本の判型が大きくて豪華で値段が高いのは、部数が少ないからだ。熱心な少人数の支持者が買えば、商売が成り立つからあの価格、あの値段設定がされている。
実話怪談本は、コンビニ本だ。
文庫本の判型で値段が安いのは、部数がそれなりにあるからだ。それ故、支持を失えば世に出る機会を失う。支持がある、買われている、少数の熱狂者ではなく、より多くの支持を獲得できなければ舞台から降りなければならない。次もない。*1


超-1は、この終盤にきて、ある意味「次のステージ」に入りつつあるのかもしれない。
超-1は「超」怖い話の共著者を捜す選抜大会だった。
応募者同士の互選講評、読者の講評自由参入、「最後に残るのは一人」という非情さ。
その切磋琢磨は、応募者のレベルを大会期間中に無理矢理進化させ、超-1作品集の実現を勝ち取った。
この甘美な成功体験を一度味わってしまうと、たぶん「次」が欲しくなる。
今度こそはと思ってしまう。
超-1作品集「第二巻」に思いを馳せてしまう。
超-1作品集「第二巻」は、すでに確定した「第一巻」の営業成績に左右される。
売れなければ次はない。
このハードルは、復帰した「超」怖い話竹書房に課されたものと同じものだ。
超-1は、祭であるけれどもお遊びではなくなった、と認識されたことの証しでもある。


超-1というカタチを残し、続ける。
それが【チーム・超-1】の次の目標になるだろうと思う。






PS.
ああ、そうそう。
超-1作品集収録作品にはもちろん印税が支払われる。
人によっては、超-1ランキング1位の賞金より多くなる人も出るかもしれない(笑)
超-1作品集の実現によって、応募者は自らの手でその成果報酬をも稼ぎ出した、ということだ。与えられた賞金よりも稼ぎ出した報酬のほうが、遙かにその価値は高い。


君たちは凄いことをしつつある。

*1:ルーチンワークの雑誌の場合、他の連載のバリューがあれば単発掲載作品のバリューが乏しくても雑誌本体の刊行に支障は出ない。大物著者のバリューに頼れない無名著者が、雑誌というルーチンに頼らずに、しかも単体商品としてコンビニ本で大勝負に出ようというのは、これは大博打でもある。ただ、竹書房編集部は博打に勝てると踏んでコンビニ文庫「超-1作品集」にGOを出した。我々はこの信頼に応えなければならないし、応えられると思いたい。雑誌に頼りたくても竹書房のコンビニ本編集部には雑誌という媒体がないわけで、「超」怖い話同様僕らは手足を縛られてこの大海に投げ入れられる。死にたくなければ死にものぐるいで泳ぐしかない。