一周忌と昔話と

昨年秋、高校時代からの友人を亡くした。
その友人の一周忌が来月にあると、地元に残っている同窓生が知らせてくれた。
生憎、次の仕事の校了直前となるため東京を離れることができない。
ごめん、でもスズケンによろしく、と頼む。
同窓生と話をしていると、その時代の自分に戻る気がする。
高校時代、美術部であり図書委員だった。世代的には日本中の高校に鳥坂先輩がいた時代(笑)
来年には不惑になろうかという歳になった。
学生時代現場に入るのが早かったせいもあるが、今の仕事も今年で21年になる。もう、他の仕事で暮らす自分が想像付かない。
が、子供を持たないせいかいつまでも「あの頃の気持ち」が抜けない。
電話をくれた友人は一人息子が今年中学生に上がったという。
「もう子育ては終わったようなもの」
そうか。そうだよ。来年不惑だもん。そのくらいの歳だよなあ。
うちの弟だって子供三人いるもんなあ。
11月にある高校の同窓会の連絡を回した友人も「うちも三人目がいて大変」とこぼす。でも大変そうでもない。仕事の愚痴は言ってたけど家庭や子供の愚痴は言ってなかった。ダンナも同窓生だけど今も友達のまんまやってる、と言う。
近況を聞いて、驚くような安心するような。
「お前は最近どうだ」と聞かれると、「まあ、あんまり変わらん」としか答えない。仕事はありがたいことに続いている。日常には大きな変化はない。猫は可愛い。怪我はあるものの、このところ大病とも縁がない。怪我は、これは僕の人生の余録というか帳尻合わせのようなものなので仕方がない。幸い、生傷は増えても動くのに支障はない。
生きてるといろいろあって楽しい。
十年ぶりの友人と、十年前と変わらない会話ができるのも楽しい。
毎日人に会うのも楽しいけど、「やあ、久しぶり」というのが楽しい。
年に一度、数年に一度しか会わないけど、何十年も付き合いが続いている友人もいる。再会が何より楽しい。
法事は、故人を思い出すと切なく寂しい。
が、まだ生きている友人と再会する口実を故人がプレゼントしてくれたのだと思えば嬉しい。楽しい。
今回、その口実をちょっと活かせそうにないのは、少し悔しい。
その分、11月の同窓会に顔出してこようか、と思ってみたりもする。
そういう空気を吸って、また生きていこうと思う。
「根っこがあれば、どうにでもなるよ」
三人の子持ちながら働くカーチャンとして頑張っている友人はそう言っていた。
僕の旧友たちは、たくさん名言至言をくれる。
僕の商売道具である多くの【言葉】を磨き育ててくれたのは、たぶんたくさんの友人たちなのだと思う。これまでの友人、そしてこれから出会う友人が僕を作っていく。
文章を書くというのは、託された言葉をまた別の誰かに損なうことなく託す仕事なのだと思う。僕が友人達から託された言葉、怪談やその他の仕事を通じて預かったエピソードを、また別の誰かにリレーする。それが仕事になっている。
厄介な、しかし重大な役目を仰せつかった。
文を記し文を編むところまでが一生の仕事になるとは、高校時代の自分は考えもしていなかっただろうなあ、と旧友と話すたびに思う。


ともあれ、もうこれしかできない。
頑張ります。頑張りすぎない程度に頑張ってます。
ほどほどで生きてます。
同窓会で誰かに会ったらそう言おう。