独考諸々

原稿と格闘しつつ、冬のシフトについて独考。
自主トレでいろいろ苦労してもらっている。それぞれ、ライバルと同時スタートでありつつ、実は最大のライバルは自分自身であるという苦労を負っている。相当苦しんでいるようでもある。
これは「新たな個性を作るためか」と問われたら、僕はNOと答えたい。
彼らは今は個性を、作ったり求めたり磨いたりする段階ではないのだと思う。というより、そもそも個性というのは意図的に計画して作るものでもないようにも思う。中には自分を自分の企図通りに組み立てることができる巧者もいるだろうけれども、そういうことはしっかりした基礎と豊富な経験を持ち、機転が利くからこそできること。基本力が付く前に個性を求めて自分に枠をはめようとすると、芸の幅を狭めることになってしまうのではないか、と思ったりもする。
かのパブロ・ピカソだって最初からゲルニカや最晩年のような作風だったわけではなく、青の時代、バラ色の時代などの技術的蓄積があって、その上で次のフェーズにシフトし、自分の可能性を広げていった。作風だけいきなりキュビズムを真似たところで、それ以外のことができるようになるわけでもなければ、ピカソになれるわけでもないわけで。
様々なスタイルに触れ、それらを自分も試していくうちに、自分に合ったもの、自分には不向きなもの、得手不得手などが見えてくるだろうと思う。取捨選択切磋琢磨していくうちに、「できるようになる」のではなく「これしかできない」ものとして残るのが個性なのではないだろうか。
そのためには、完璧な一本を完成させることよりも、掌編を何作も何度も書き重ねていくしかない。
加えて、実話怪談では書くということ以上に「聞く」ことに重点が置かれる。聞いた話の要旨・骨子を把握することは、その後に続くエピソードのダイエットや肉付け作業といった文章作成作業よりも、重要かもしれない。
聞くという作業は地味であると思う。その過程そのものには著者の華はないし、誇るべき手腕が発揮できるでもない。
だが、僕が知る限り、歴代の実話怪談の名手はおしなべて「聞き上手」であると思う。樋口氏が得意としたスタイルは飲み屋で隣に座った見知らぬ人から怪談を引き出すことだったが、これは聞き上手であり語らせ上手でなければ成し得ないことだ。
平山氏については近年はトークライブなどで当人の語りのおもしろさが知られるようにもなったが、平山氏の真骨頂は「客弄り」というか「インタビューイ弄り」というか、相手が思わずつり込まれて話をしたくなってしまう、ように導くことのうまさ。やはり聞き上手、引き出し巧者であると思う。素人・玄人問わず、思わず話をしたい気分にさせてしまう、この特異な才能は「文章を書く作家」としての平山氏を語るときには見過ごされがちだが、「実話怪談のタネを拾うインタビュアー」としては特筆すべき美点であると思う。
聞き上手であるということは、「ふんふん、ほう」と頷くのがうまいということだけではなく、「相手が思わず話したくなるように水を向けること」であったり、「相手の記憶の引き出しをひとつづつ開けて回ること」であったり、「引き出しを持つ人物を捜し当てること」であったり、「知らない人と話をする」であったりということも含まれる。
書いている時間より、たぶん聞いている時間のほうが圧倒的に多いのではないかと思う。それだけに、実話怪談を書き続けるのは大変しんどく厄介だ。だから、書く理由がある人、熱意のある人、何かの呪いを掛けられている人でなければ続かないのだと思うし、それ以上に「長く続ける仕事ではない」という正常な判断の働く人が多いんじゃないのか、とも思う。
実話怪談を書きたいという奇特な人には、「書くのは数をこなせばどうにでもなる」と重ね重ねアドバイスしてきた。これは本当で、ひとつのネタを完璧にしようとぐねぐね弄り回すよりも、新しいネタを次々に書いていくほうが向上が早い。だが、小説と違って実話怪談は取材や雑談を通じて、新しい体験談を拾わなければ、「次の新しネタ」を書くことはできない。書く練習のためには、まず書くネタを見つけなければならない。
そうすると、結局は「まず聞き回ること」「得たネタを惜しまないこと」が、実話怪談上達の早道(というか王道)ということになるのではないかと思う。例えば包丁捌きを練習するためには、空中で包丁を振り回してもうまくはならない。やはり山ほど野菜を刻み、魚を下ろし、刺身を引いてみるしかない。そのためには、まず野菜や魚といった材料を仕入れてこなければならない。実話怪談も同様だと思う。
書くという作業そのものは、ある程度の方法論でどうにでもなる。が、聞くという作業は方法論でどうにかなるものではなく、書こうという意志は聞くこと以上に教えたり鍛えたりすることができない。さらに、体験談を持っている人と巡り会えるかどうかという「ネタの引き」に至っては、限りなく運に左右される。
ナポレオン・ボナパルト曰く、
「人間の最も大事な能力は”運”である」
という。これは、とある長寿スレの>>1にある一文だが、運はもっとも大切な能力であると同時に、鍛えることができない能力でもある。宿命とか業というのも、運の近縁種であるかもしれない。
ネタに当たる運が強く、聞く能力に長け、聞いた話の要旨・骨子を把握する能力を持ち*1、書かざるを得ない明確な理由*2があること。おそらく、ここまでが揃っていたら、実話怪談は「書けたも同然」で、それを形にする文章力は「数をこなせば付いてくる余録」のようなもの、と言ったら言い過ぎだろうか。
実際、「弩」怖い話にしても「超」怖い話にしても、実際問題書くのに要する時間はそれほど掛かっていない。*3体験談が貯まるまでのほうが、圧倒的に長い時間を要していると思う。
やっぱり、取材ありき。である*4
幸いにして、冬からチームメイトとなる二人は、「引き」はよく、「聞き」についてはそれぞれ個々のスタイルを持っている様子で、「書く意欲」も高い。「書く必然」は以前にも聞いている。「把握力」についてはまだばらつきはあるかもしれないが、繰り返し書くことで磨くことができると思う。
ここまで条件が揃えば、肝心の「書く文章力」についてはあまり心配しないでいいと思う。
嫌でも、もしくは仮にそれを望まなくても、こういう人は伸びる。
今年の上半期はほとんどを超-1に費やした。作品集を入れれば、一年の3/4近く超-1と関わっていることになっている気もしないでもない。超-1で生き残ったのは二人だが、先に述べた「回を重ねる」ことで文章力が身に付いた人はかなりいた。
もし次があるとした場合。
ネタを捜して充電だけを続けている人と、得たネタを片っ端から書き起こし続けて「自主トレ」を重ねている人との間で、多少の力の差が出てくるかもしれないな、と思う。
実話怪談を書くのにも、文章力は必要だ。ないよりあったほうが遙かにいい。そのためには、まず「書くネタ」を確保しなければならず、確保したネタは世に出す出さないは別としても、惜しまずにどんどん書いたほうがいい。それが結果的に文章力を伸ばしていくことになると思う。
捜す、聞く、書くはすべてひとつの糸で繋がっている。実話怪談は、どこかひとつだけで成り立つというものではない、と僕は15年の実話怪談実地経験を通じてそう思っている。


ひとつだけ付け加えるなら、僕自身が実話怪談を書き続ける羽目になっているのは、きっと何かの呪いか祟りだと思う。心当たりがまるでないので、今もって解呪できないままなのだが。
ある日突然白馬の王子様(できればお姫様希望)がやってきて、熱い口づけを交わすと呪いが解けたりしてくれないもんだろうか。呪いが解けたら生まれ変わって、僕は小学生のための社会派ジュブナイルを書きます(笑)

*1:怖さの要点を嗅ぎ出す嗅覚、と言ってもいいかもしれない。体験者自身が怖がっていることと、体験者が恐怖を感じるべき真の要点が異なっているということは、これまでにもたびたびあった。

*2:この理由というのは、人によっていろいろ違うと思う。例えば、「超」怖い話の歴代編著者諸先輩は、僕が感じた限りそれぞれ「実話怪談を書く理由」が異なっていたと思う。おそらく僕も諸先輩方とは別の理由で書いている、書かざるを得なくなっているのだろうとも思う。

*3:「弩」怖い話はいつも2〜3週間弱で書いている。でも褒められた話じゃない。orz

*4:それだけに、実話怪談を書く人は自分が発掘したネタの確保というか囲い込みに躍起になる方が多いし、それは致し方ないのかもしれないと思う。実話怪談の外(笑)の分野の方に、「書かなくていいからネタだけ下さい」と言われるのは大変辛い。書くよりネタを見つけることのほうが遙かに大変だということは、なかなか判って貰えないからだ。