リテラシーと新聞生き残り

この二年ほど、追い切れないほどスピードが速くて、ディープで、勉強になって、長寿なスレを追いかけている。これは仕事に全然無縁な時事系のジャンルの某大手スレ(笑)

それもこれも、新聞とテレビの報道&時事解説が、はずれまくっていてあてにならないため。
携帯でテレビ・新聞のニュースを受信できても、その内容が間違ってたりまとはずれだったら意味がないわけで、インフラ(+ハード)の拡充はどんどん進んでいるのに、そのインフラに載せるべき情報(ソフト)の信頼性がどんどん劣化してるというのは非常に問題があると思う。
それが、娯楽情報や個人がどう消化してもなんの問題もないような道楽的情報ならそれもいい。今僕が発しているような、「情報の最終消費者としての個人的感想」でもいい。
が、その情報を受け止めた人間が、それに基づいて何らかの判断を下さないといけないような性質の報道や時事解説について、「判断材料として提示されたものに信頼がおけない」というのは、なんか非常によろしくない。

その意味で、インフラは進化しても中身が追いついてこない既存メディア(の、二次情報介在者)は、いずれじわじわと「信頼性のない情報加工者」として情報受信者に排除されていく可能性がある気がする。所謂、メディア・リテラシーという奴だ。

「間違った情報を発信する発信者」に、情報発信を禁じることはできない。そもそも情報が間違っているかどうかは、その他の複数の情報と照らし合わせないとわからないし、事実誤認の場合はともかく、時局解説のようなものは、解釈の相違もあるから「常に間違っている」とは言いにくい。
報道の自由、発言の自由もあるし。

ということで、逆に「情報発信を制限しない代わりに、情報受信者が自らの意志や趣味に合わせて、多すぎる情報を選別していく」という方向での対応が求められるようになった。

これには幾つかのスタイルがあると思う。

まず、URLフィルタリングなどのように、親が子供の獲得する情報をあらかじめ制限したい場合など。有害情報を親が定め、ソフトによって事前に遮断するというものだが、この場合、「ナニが有害か」を決めるのは親権者(保護者)ということになり、情報を受け取る子供自身は自分の判断では情報選別はしていない。
子供に何を与えるべきかを大人が考えるというのは、別に目新しい方法ではない。教科書は生徒が自由に選べないし、小遣いが自由にならないうちは、本を買うにしたって親の認めたものしかもらえない。URLフィルタリングはその延長線上にあるものであって、情報受信者が独自に判断して峻別するのとは異なる。

例えば2ちゃんねる専用ブラウザでは、利用者が独自にNGワードを登録できる。特定の不快語を使った書き込みだけを遮断するという機能で、その単語が含まれたレスを消去する(不快語を見ない)、レスの存在そのものを消去する(不快語の存在そのものを意識しないで済むようにする)、そのレスに反応したレスを連鎖的に消去する(反応から母発言が連想されるのも防ぐ)、といった機能に進化している。
これらのNGワードがおもしろい点は、発信者が発信する自由そのものは損なわれない(どうせ止められない)点と、受信者が自分の許容レベルに合わせてNGの深度を決められるという点にある。読んでも気にならない(心理的ファイヤウォール(笑)が高い)人は不快語を聞き流せるが、心理的ファイアウォールが低い人はあらかじめ自分で決めた基準をNGワード機能で自動分別できる。
元々は議論に不要な要素(話題の脱線や、恣意的な妨害者)を排除するための機能なのだが、言葉狩りにならずに*1不要語に自分が関わることが避けられるという意味では、今後需要に合わせて発展していく機能なのかもしれない。

RSSリーダーの発達でかなり便利にはなってきたものの、個人的には「社説クロスファイアソフト」とか、「恣意的表現チェッカー」とか出てくれないもんかな、と思うときはある。
新聞記事や新聞関連のコラムでは、「情感に訴える修飾語」が使われていると、途端に説得力を失うように思える。例えば、「発言した」で済むところを、「語気を荒げた」「苛立って吐き捨てた」「声をあげた」「慌てて弁明した」と書いたら、読み手は言葉の印象に振り回されてしまう。
「と示唆した」「と思われる」「が心配される」「論議を呼びそうだ」などだって、そうなってほしいという願望に過ぎないわけで、やはり何らかのミスリードを心がけた文章に見える。
小説ならそれでもいいし、むしろ読者の感情を揺さぶる必要からそうすべきなのだろうが、新聞報道や時局解説記事でそういう作文をする必要があるだろうか?

なので、そういう言葉が出てきたら「記者の作文の可能性があります」と指摘して、文脈そのものから大意を抽出するソフトがあったらおもしろいなと思ったのだが、そんなソフトを労力書けてアルゴリズム考えて作るよりも、ちょっと読むのと理解するのが早い人が【翻訳】(笑)したものを投稿、それをコピペして、大勢でよってたかって考察したほうが全然早い(^^;)
人力で人海戦術(笑)

もちろん、効率化はされるべきだろう。が、システムをガチガチに作ってしまうと状況の変化には柔軟に対応できなくなるし、その意味ではルールを絶えずダイエットする必要はあっても、柔軟性の高いシステム作りって必要なのかもしれないな、と思ったりもする。
既存の報道では、すでに効率化や組織作りががっちり進みすぎてしまっていて、変化に対応していきにくくなっているのかもしれない。巨大すぎる恐竜、といったところか。

2ちゃんねるのような匿名掲示板のおもしろいところは、
「需要の規模がはっきり数に現れる」
「母数が膨らむことによって、新しい対応方法を考える人、効率化を進める人が出やすくなる」
「新ルールによる効率化を受け入れたほうが便利である、と気付いた人が多数派になることで、新ルールの受容と普及が短期間で進む」
という性質を持っている点。これは、豊富な人材がある*2ということによって成り立つ。
「効率化ルールは自然発生、自然受容。効率的でないルールは支持されなければ自然淘汰
というごく自然なことも、硬化した組織がないが故にできることなのかもしれない。新聞テレビなどの報道については、硬化した既存インフラがどれほど受信者の変化に対応できるかが生き残りの重要なカギになっているはずなのだが、ネットや携帯の対応を見ても「新しい革袋に古いワインを入れている」ような感が否めない。
ダメなものが瞬時に広まるようになった*3のと、頑張ってるところがあることが発信者の規模の大小に拘わらず瞬時に広まるようになったことは、喜ばしいことだけど。

と、風呂敷が広がりすぎて最初のお題がなんだったか思い出せない(笑)
あー……そうだ。
新聞とテレビは基本に戻って「信頼性のある判断材料を提示する」「信頼性を取り戻す」ということをやらないと、一次情報や別ソースとの突き合わせという確認方法を得て、しかもコアのない柔軟な対応方法を得てしまった情報受信者が、どんどこ離れていっちゃうと思うよ、というお話。

新聞の総販売部数はずっと右下がりを続けてるというし、新聞に入る広告も減り続けてるというし。世の中はいざなぎ景気を越えた好景気なのに「景気の回復を実感できないという報道」が多いのは、新聞社が一人負けして景気が悪いせいなのかなあ、と勘ぐっちゃう。つい。

*1:発言の自由を阻害せずに

*2:=これも母数が大きいことで説明できるが

*3:「ふー、びっくりした」とか。