続いていくことについて
例えば、大好きな公園があったとする。
毎日の生活に欠かせない居酒屋があったとする。
好きだから行くし、欠かせないから通う。できれば独り占めしたいくらいだけど、自分ひとりだけが使って他の人が使わなかったら、公園は「公共の役には立たないもの」になるし、居酒屋は商売が立ちゆかなくなって潰れてしまう。
公共の役に立たない公園は潰されて他の需要がある駐車場になるし、客が入らなくて商売が立ちゆかない店は潰れて他の店に変わってしまう。
自分にとって必要で、できれば永続して欲しい場所や店が、今後もずっと続いていくようにするにはどうすればいいか。というより、どういう場所なら今後も続いていくか。
それを必要だと思う人ができるだけたくさん増えること、それの必要性を見いだす人をできるだけ集めること。
公園や居酒屋は日本国内のどこにだってあるし、珍しいものじゃない。黙っていても公園や居酒屋が絶滅することはないと思う。
でも、自分ち近所の自分のお気に入りの公園や居酒屋は、何もしなければいつなくなってもおかしくない。
公園にはまめに出かけぼんやり活用し、近所のワルガキが捨てたゴミは拾って帰ったりする。偽善者っぽいけどそれをする。
居酒屋にはまめに出かけ、友人を連れて行き、誰かを呼び出したりもする。そうやって、店がいろいろな人に知られて賑やかになれば、いつでも自分も迎え入れて貰えるんじゃないか、と期待できたりする。
場を維持する、店を育てるってそういうことかもしれないと思う。
日本中のすべての公園や居酒屋が潰れてなくなっても、自分ち近所の公園と居酒屋が残るように、足繁く通うこと。これが自分の居場所を今後も維持していく唯一のそして確実な方法なんじゃないかな、と思ったりもする。
江古田にあった焼鳥屋に、昔はよく通ってた。その店自体は二年も保たずになくなっちゃったけど、あそこはいい店だった。もし、今も続いていたら、何年か空けてふらりと入っても、「いよう、久しぶり」と声を掛けてくれてたかもしれない。
中野に今もある地酒専門店に、昔はよく通ってた。金もないのに、酒と梅叩きだけで粘って、酒の味を覚えてた。最近は数年に一度しか暖簾をくぐらないんだけど、行くと「や、お久しぶりで」と声を掛けてくれる。酒飲みの自分の原点のひとつだよなあ、と思う。その店が20年以上も在り続けてくれることが嬉しい。
僕の仕事は飲食業ではないんだけど、それと同じようなことを結局自分でもやってるのかもしれないなー、と最近ちょっと思った。
似たようなことができる公園や店はいくらもあるけど、僕は僕んち近所のなんてことのない公園や居酒屋が好きで、その公園や居酒屋がなくならないようにするには、とかそういうことをぐるぐる考える。
怪談本は数多あるけど、僕は「超」怖い話でないとダメで、「超」怖い話がずっと続いていくということが僕にとっては重要なんだろうなと思う。暖簾くぐったら、「や、お久しぶり。怖い話あるよ」というような、そういう。
居酒屋「超」怖い話(笑)は、何度か閉店の危機に見舞われたし、実際に二度も「しばらくお休みします」という張り紙を出していたし、親会社(笑)だって変わった。でも、なんとか店は同じ看板で続いている。
「超」怖い話が発展してあちこちに暖簾分けした本が出ることは素晴らしい。でも、本家本元というか根っこになってる本店の「超」怖い話が、いつまでもずっと続くよう、「超」怖い話という店がこれからもなくならないよう、自分のための「超」怖い話が、多くの読者の方々のための「超」怖い話でも在り続けるよう頑張らなくちゃね、と。
短い休憩の合間、酒の本ばかりを読みあさっていた(酒も飲んでた)。
新しい仕事に取りかかるときは、いつも昔お世話になった社長や先輩や取引先の人、店長、店主、マスターなんかが思い浮かぶ。
店は持ってないけど、店長になったつもりで頑張りますよ、ということで。