ケスラーシンドローム

新聞ニュースなどではぼちぼち報道されているはずなのだが、科学技術系以外ではあまり注目を集めないニュースに、「中国による衛星破壊実験」がある。
これは、軌道上にある衛星を地上からの攻撃によって破壊しようというものだ。
現在の高度技術兵器の多くが、衛星に負っていることを考えれば、敵の天空の目を潰そうという戦略的発想は、当然の帰結といえる。戦略・戦術的にも、「敵の目を潰せ」というのは太古の狩猟の時代から、前近代の戦争での目つぶし、対レーダー破壊、チャフ、ステルス技術に至るまで、何ら変わっていない。
それは、わかる。戦争の技術としては。
わかるけど、認めない。


この「衛星を破壊する」という実験は、かつて冷戦時代のアメリカが先行して一度だけ行っているそうだ。しかし、その影響の大きさを鑑みて、その実験は行われていない。
なぜか。
核兵器を有し、各種兵器の開発にも貪欲なアメリカがなぜ、衛星破壊を一度きりで止めてしまったのか。
環境破壊の愚に目覚めたとかそういった平和な発想に基づいて、冷戦時代のアメリカが敵に先んじる有効な方法を封印した――というのは夢物語に過ぎる。
アメリカが衛星破壊をやめたのは、ケスラーシンドロームを引き起こす可能性の高さを懸念したから、と言われる。


ケスラーシンドロームとは何か。
SFに詳しい人なら一度くらいはこれを題材として扱った作品に触れたことがあるのではないかと思う。昨今、手に入りやすいところでは漫画「プラネテス(幸村誠講談社)」、もっと遡るとアニメ「おいら宇宙の炭坑夫」なんかが、その手のテーマを扱っていたように記憶している。
一言で言うのは少々難しいのだが、挑戦してみよう。


宇宙空間には大小様々なゴミが浮いている。
大は耐用年数を過ぎて廃棄された人工衛星だったり、小はそうした衛星の部品、打ち上げたロケットの不要部分、先頃ISS*1のスタッフがうっかり落としたデジカメなどもこれに当たる。
こうしたものをデブリスペースデブリと呼ぶ。
デブリは、宇宙空間を漂っているのだが、漂うといってもぼんやりゆっくり浮かんでいるわけではない。毎秒6〜20km以上の高速で地球の周回軌道上を高速回転している。
物理的なエネルギーというのは、モノの大きさ、重さ、移動の早さに比例して大きくなる。
大きなものが大きなエネルギーを持っているのは、大きくて重いからだが、小さくて軽いものでも、移動速度が速ければ大きなエネルギーを持つことになる。わかりやすく例えれば、弾丸。拳銃、ライフルなどの弾は、それそのものが数gから数十gもない程度の、指一本よりも小さな塊に過ぎない。
が、それに100m/秒以上の初速が加わると、人間の身体を貫通できるエネルギーを得る。拳銃の弾が当たったら、当たり所によっては死ぬということは、誰でも知っている。
毎秒数百mでもその程度の威力があるわけだ。
毎秒数十kmの物体にどれほどの威力があるか、想像できるだろうか。
ネジ一本の物体であっても、柔らかい宇宙服など一発だ。
それどころか、衛星、ロケット、シャトルの外壁に穴を開けることができるほどのエネルギーを持つ。
デブリは高度が落ちて大気圏という焼却炉で燃え尽きるまでの間、ずっとその高速で周回軌道上を回り続ける。
永久とは言わないけれど、何十年、高度によっては何百年もエネルギーが損なわれないまま、回り続ける。


このデブリが、他のデブリや衛星などに衝突するとどうなるか。
衝突されたほうのデブリは、その巨大なエネルギーによって複数の小さなデブリに分解される。が、ぶつかられた側の速度が落ちるわけではない。弾頭が散弾になるだけのことだ。ひとつひとつのエネルギーは若干小さくなるものの、デブリの数そのものは逆に増大することになる。


衛星のような巨大なものがデブリにやられると厄介だ。機能停止し、地上からの制御を離れた衛星は、宇宙空間の機雷と化す。
機雷というよりは、魚雷といったほうがイメージに近いかもしれない。
その衛星が、新たなデブリとなって、次の衛星、次のデブリを加速度的に増やしていく。
これを、ケスラー・シンドロームと呼ぶ。NASAのケスラー博士によって提唱された、デブリ増殖を懸念したモデルのことだ。
実際に、どの程度の速度でデブリ増殖が進むのかについては諸処紛々賛否両論あり、加速度的なデブリの増殖が、致命的な結果を起こすとも起こさないとも結論は出ていない。
が、原理と可能性はゼロではない。
アメリカが衛星破壊実験を取りやめたのは、このケスラー・シンドロームが現実のものになる可能性を鑑みて、とも言われる。


デブリデブリを産み、加速度的に衛星が破壊されていく状態の何が問題なのか。
脳天気な平和運動家は、多くの場合、「兵器が役立たずになる」という部分で思考停止してしまうようだ。
軍事衛星が使えなくなるなら、宇宙の軍事利用を阻止でき、宇宙の平和利用が進むのではないか、と。
が、ことはそんな単純な問題では済まない。

現在、衛星を利用しているのは軍事目的だけではない。
天候予測に使われる気象衛星はどうか。
船舶、飛行機、カーナビ、最近では携帯にも搭載されている位置測定機器、GPSはどうか。
災害時の通信に使われる衛星通信電話はどうか。
多く普及しているBS、CS放送のSは「サテライト(衛星)」のSだ。
科学目的の実験衛星はどうか。
そうした多くの民需衛星の全てが、デブリ禍に巻き込まれることになれば、衛星に頼る現代の高度技術、普及の極みにあるデジタル家電の多くは目を潰された状態に陥る。
しかも、それは一時的な現象では収まらない。
数十年、或いは数百年。ヘタをすれば数千年、数万年続く。
増殖を続けるデブリが地球を覆い尽くすとどうなるのか。
それらは不規則にあらゆる方向に向かって散らばり、地球上のどこから、どの方向に向けてロケットを打ち上げても、必ずデブリと衝突することになれば、人類は地球から一歩も出ることができなくなる。
地球はデブリという突破不能な袋の中に閉じこめられることになる。
宇宙利用、宇宙開発、宇宙からの地球観測、そうした全てを失うことになる。
これが、ケスラー・シンドロームが懸念する最悪の状態だ。


先に挙げたように、ケスラー・シンドロームが実際に起き、ここまでの事態を引き起こすという確証はどこにもないが、可能性がゼロではない以上、それは起こりうるものと考えなければならない。
だからアメリカも衛星破壊実験を取りやめ、戦略からそれを外した。




冒頭に戻ろう。
中国は、衛星破壊実験を行った
行う、と宣言したのではなく、すでに行った。
中国領内を通過中の、中国によってすでに廃棄された、中国の気象衛星が、その破壊実験の標的となった。
中国が行った衛星破壊実験は、レーザー照射によりセンサーカメラを機能不全にする、同調する電波を照射して不能化する、そうした光学・電磁波による不能化ではない。
衛星に地上からミサイルをぶつけるというものだ。
静止衛星とはいえ、完全に止まっているわけではない。地球の自転とほぼ同じ速度で動くことによって、「ほぼ同じ場所」に留まっているとは言え、その大きさは数メートル、大きくても十数メートル程度の微少目標に、地上発射したミサイルを正確に命中させたという技術を、すでに中国が持っているということを示す為の示威行為だったのかもしれない。
中国は、アメリカの衛星にレーザー照射を行う、演習中の米海軍空母キティホークの至近8km(魚雷を命中させられる距離)に自国潜水艦を探知されずに浮上させるなど、アメリカに対して中国の実力を見せつける行動を集中的に続けている。

今回の衛星破壊実験についても、アメリカにも日本にも通報せずに行われた。
それも「俺たち凄いだろ」「好きなようにはさせないぜ」という、気軽な国威発揚だったのかもしれない。


が、中国の行った衛星破壊実験は、ケスラー・シンドロームに向けた引き金を引く結果となった。
中国の衛星破壊実験の影響によって、本当にケスラー・シンドロームが始まったかどうかを検証することもまた、不可能に近い。
10cm以上の大きなデブリについてはスペースガードによってその軌道が追跡監視されているが、それ以下の小さなデブリは監視対象外だ。
ネジ一本のデブリなら影響はないのかと言われれば、そうとは言えない。
人工衛星というのは、「物理的な何かが衝突する」ということはその設計思想には含まれていない。衛星の写真を見れば判るように曝露部も多い。無重力空間であるが故に華奢な構造のものもある。
小さな欠片がぶつかり、部品をひとつ壊しただけで、衛星全体が機能不全に陥ることも十分に考えられ得ることだ。


考えすぎだと思われるだろうか?
2ちゃんねるにもすでに流れているが、technobahn.comが紹介した中国の実験後のデブリのシミュレーションモデルは、このようになっている。
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200702012327&ref=rss


中国の実験が行われたのは、2006年12月11日のことである。
2007年1月30日、軌道上に浮かぶハッブル宇宙望遠鏡のメインカメラが電気系統の故障により機能不全に陥った。
2007年1月30日同日、40m級と世界最大レベルの大きさを持つ日本の実験通信衛星きく8号は、電源機器に異常が発生。現在、実験に支障をきたしている。




ケスラー・シンドロームは、人類の宇宙進出を阻むものだ。
地球というゆりかごに檻をかぶせる行為だ。
スペースコロニー好き、ロケット好きとしてだけでなく、看過できない。



PS.2007/02/07追記
この記事について、イスラエルから火の手が上がっている。
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200702071841
始めたのは中国だ。