純化深化と拡大

恐怖に限ったことではないのだけれど、刺激を伴うものは往々にしてインフレを起こしやすい。辛いものが好きな人はどんどん辛いものにハマりこんで行くし、コースターが好きな人はどんどん早くて高くて急角度なものにはまっていくし、ゲームが好きな人はどんどん難易度の高いものを求めるようになる。
怪談でもそれはしばしば起こり、恐怖を求める人は恐怖を感じるセンサーが麻痺しやすく、「より強い恐怖」を求めて恐怖インフレに陥りやすい。
このことは、先頃12刷りが掛かった竹書房版第一巻「超」怖い話Aの後書きでも書いた。もう5年も前になる。


恐怖に限った話ではないけど、好みについて「強度」「強さ」を求めて突き進んでいくと、実は袋小路に行き詰まりやすいのではないかと思うときがある。
特に恐怖というのは「思いもがけない」から怖いのであって、予想の範囲内に収まるものは、さほど怖いとは思えなくなる。先が読める、オチが予想できて、予想の範囲内に収まるものは不意打ちではないから、対ショック姿勢も予備行動もできてしまう。立ち向かえてしまうから怖くない。


自分の基準に照らし合わせて好みのものを追うようになると、好み=繰り返し類似したものに触れ続けるぶん、当然予想の的中精度も高まる。
予想が当たってしまうのは怖くないのだ。


そうなると、進む道は幾つかに分かれていくことがわかる。
第一の選択肢は、自分好みのもの、予想の範疇にありかつ「強くて深い」ものを選ぶこと。これは「頂点を目指す」とか「極を究める」とか、そういう方向を進むことなのだが、これは最高傑作を見つけたらそこで終わってしまう。または、最高傑作が更新されるたびに選択肢は少なくなっていく。最終的には「選べるもっと上」が少なくなりすぎる。
理想が高まりすぎ、結局何も選べなくなる。
芸術家が陥るスランプにはこの傾向から来るものがあるのだそうで、求める理想に自分の実力がついて行かなくなるとスランプに陥る。そこで突き抜けて次のステージに行ける人もいるが、そのまま潰れていく人の方が多い。
偉大な、つまりスランプを解決して次のステージへ進んだ芸術家はどのような解決策を採っているかというと、実は次に挙げる第二の選択肢を進んでいる。


第二の選択肢は、深める・極めるというベクトルではなく、別の手法や方向性を取り入れるというもの。手法そのものを変えてしまうというのもあるし、別のやり方をどんどん取り入れていくというのもある。パブロ・ピカソは一生のうちに何度も作風を変えている。レオナルド・ダ・ヴィンチは平面画、立体からあらゆる技術にまで表現手法を拡大した結果、キャンバスの上では表現できないようなことまでも表現する手段を経て、表現の幅を拡大した。


完成度を高めるために、ひとつの作品にだけ向き合っていくと必ず煮詰まる。バリエーションを広げたほうが、視野も広がり、新鮮な驚きや新鮮な出会いも増える。


恐怖とは、「思いがけないこと」だと思う。
これは恐怖に限ったことではなくて、それ以外のものでも概ねきっとそう。
思いがけないことを求め続けようと思ったら、自分の手足をできるだけ縛らないほうがいいんじゃないかと思ったりもする。


ただ――思った通りの自分になるというのはなかなかできるものでもなくて、結局「自分にできることしか自分にはできない」ということに、そのうち気付くものでもあるわけで。
とりあえず、「自分にできることしか自分にはできないが、自分に何ができるかどうかはわからないので、自分にできるものかどうかをとりあえず試してみる」というのはアリかもしんない。それで「自分にできること」という枠組みが実は案外広いらしいということに気付ければ、それはそれでめっけものだ。


ともあれ、「自分はこれを極めるのだ」と最初に決めて掛からない方がいいんじゃないかなー、というように思う。
いろいろなことに手を付けてみて、そのうち自分は結局これしかできないらしいっていうことに気付いて、壁にぶつかって、それでまたいろいろなことに手を広げて……そういうことを繰り返して自分を変え続けていける、または一生もがき続ける人*1が、結局いちばん強いのかなあ、と思ったりもする。


22年やってもまだまだ道半ば。


 

*1:勝つまで辞めない人が勝つとかw