新しい仕事

オフ会でしていたかもしれないし、別にしようとしてたかもしれない話などをつらつら思い出す。一緒に飲んでたらこんなウザイ話を聞かされてましたよ、来てた人は気の毒で来なかった人はラッキーだよ、くらいな話などを少し。



まだ11月なので今年を総括するには一ヵ月早いんだけど、そういえば去年に続き今年もいろいろと新しい試みというのに挑戦させていただく機会を得た。
というか、厳密には一昨年くらいから今年に掛けて、という感じだけど(^^;)
実際、ノウハウのない仕事や先行している概念がない仕事というのは、毎日が暗中模索になるわけで、ノウハウのある馴れた仕事をするよりずっとしんどいのだけど、新しいスキル、ノウハウが手に入ると思うと、それが楽しみだったりもする。(でもそうやって手に入れたスキルやノウハウが、それ一回こっきりだったりすることがほとんど(^^;))


ゲームのシナリオは実際おもしろかった。方法論や拘束条件、制限の違い・厳しさが出版とは全然違うというところ、ひとつの原稿を自分が最後まで支配するんじゃなくて、並行する他のシナリオに合わせて、他の方によって文章や基本ストーリーが修正されていくというのも初めての経験だった。やってる最中は泣き言ばかりだった(^^;)けど、終わってみるともう一回最初から新しいのやらせてくれ、という気持ちになる。僕はおよそ追いついていないけど、長坂秀佳先生、我孫子武丸先生の気持ちもそんな感じだったのかなあ、と思わなくもない。
ゲームの周辺の仕事としても、最近あまりやってなかったことをさせていただいたのだが、それは近日つまびらかに。


超-1は去年、今年と回を重ねることができた。去年と今年はコンセプトが違ったり、傑作選である怪コレが「超」怖い話から暖簾分けしたりといろいろ変化があるのだが、実は今後の展開についてもいろいろ変化や拡充の計画がある。超-1はあくまで実話怪談の最終処分場であるという立場を弁えつつも、持て余された体験談や持て余されている才の行く先を案じるという方向に進んでいくのかもしれない。おまえは自分の才もおぼつかないのに人の才能を案じてる場合かと言われそうなのだが(^^;)、自分に才がないからこそ才のある人に機会を作りたいという気持ちがあるわけですよ。編集者だから。
自分の機会を他人に譲るというだけでは、それは乞食に金を恵んで悦に入るのと変わらない。そうではなくて、機会を作り機会を拡大し才ある人が次の一歩を踏み出す路を、新しく造りたいと思う。これは、類似先行の企画を手がける、あらゆる先輩方(主に編集者)が抱えてきた課題であり、また今後も才ある人への支援としてあらゆる方法が試されていくんじゃないかなと思ったりもする。
僕も又そういう「支援する側」に立ちたいと思っている。編集者だから。それは自分の栄光(そんなものはナイw)を分かち与えるという形ではなくて、ふんどしを貸すということでもなくて、やっぱり才ある人の才は後世に遺るべきという必然に従って、というか。僕は自分が前に出るよりは、誰かの背中を突き飛ばしたい人間なんだなあ、と(^^;)
だから、前に出たい人がいたら俺の前に来い、後ろから突き飛ばしてやる! と。
他人の才が発揮されないことにハラハラするのは、やはり自分にないものを持っている人が埋もれていくことに理不尽さを感じるから、裏を返せば僕にはそこまでの才はないということに対する諦めと、自分より才がある人の不遇がやはり我慢ならないという苛立ちが、そうさせているんじゃないのか、とか。


大昔の話になるんだけど、高校時代僕は絵を描いてた。同人誌もちょいとやらかしてた。だけど、僕よりも絵がうまい人がいて、そいつを何が何でも知らしめたい、世に出したいという気持ちが勝って、絵を描くよりも企画編集の方向に進む道を見いだした。
今は絵ではないものを自分で書いたりもしているけど、やはり自分で書くことよりも誰かを打ち上げたい気持ちのほうが定期的に強まってくるのは、その高校時代からずっと続く衝動なんだろうと思う。
どんなジャンルであれ、凄くうまい人を見たとき、その人が既に十分な評価を受けているのであれば嫉妬の感情は全然出てこない。凄くうまい人が、相応な評価を受けていなかったりすると俄然悔しくなってくる。この人はもっと評価されるべき、ってなそういう衝動が自分の中に湧いてしまう。
超-1は、そういう「もっと評価されるべき」という才の集積地でもあったように思う。しかも、去年と今年では上位の顔ぶれが違った。新人もかなりいたし、昨年の下位が成長して上位に躍り出たりもしていた。
彼ら彼女らは、もっと評価されていいと思う。
モノカキ・クリエイターにとっての評価で何が嬉しいかというと、「偉い人がそう言った」ということよりも、いろいろな人が手にとって、あちこちで異口同音に多くの評ののろしが上がることだと思う。読者ページをやっていたときに感じたのは、編集部で褒められるよりも読者ハガキの枚数が多いほうが俄然嬉しかった。
だいたい、誰かに認められたいから書くというよりも、「とにかく大勢に見てほしい」から書くというのが、本を作るという衝動の根源にある。偉い人に褒めて貰うことで、より多くの人の目に留まるというのはもちろんあるんだけど、実際に多くの人に見てほしいという気持ちのほうが僕の場合は強い。当時の同人誌の上限と、商業誌の最低部数には大きな開きがあって、壁サークルになっても手が届かないような数字を、商業誌では「そこに届かなければ本を出す意味がない」と規定していた。有名になりたいお金が欲しいというよりも、より多くの人に見て欲しい、という欲求を満たそうと思ったら、そりゃあ商業誌に飛びつくわな、と。そうして今の僕があるわけなのだが(^^;)


そんなわけで、来年に向けた新しい仕事をこれまた突貫で進めている。
準備期間は持ってた気がするし、発売日までまだ日があるはずなんだけど突貫になってるのは、レギュラーその他との兼ね合いorz
でも、新しい仕事は今までやったことのないターゲットであること&ここ何年か暖めていた新しい仕掛けの雛形を研究する実戦試験の場ともなっていること、トレーニングにもなっていることなどなど、非常にエキサイティング。
だいたい文句言いまくり、愚痴言いまくり、ボヤキ、拗ね、怒濤のように喋り(普段、人に会わないので打ち合わせでは興奮しますw)、〆切前には泣きまくり……という僕にとってはいつもの進行スタイルで、編集さんにはたいへんご迷惑と負担をお掛けしているのではないかとまたくよくよしたりもしているのだが、一人では絶対にできなかった「仕掛け」を実際に試せるのはとても嬉しくて楽しい。
例によってノウハウがないので、ゼロからの開墾ではあるんだけど、畑を耕してるのが自分ひとりじゃないとか、そこから取れた作物の味とか、それを耕す才人の腕前とか、そういう楽しみもいっぱいあって、苦しいけど楽しい。



前に「好きなことを仕事にできる人は少数の幸せな人だけだ」と言われたことがあった。これは今もたまに言われる。
文章書くのはしんどいし、別に怪談が好きなわけではなくて、それしかできないし、怪談のノウハウだけは嫌というほど蓄積してるし、そういう依頼しか来ないから怪談をしぶしぶやってるのだ、というのは確かにあるのだが(^^;)
でも、そういう苦労諸々が嫌いかと言われれば確かに好きなんだろう。
好きなことを仕事にしているのではなくて、仕事にしているうちに好きになった、またはもうこれ以外に生きる術がなく、幸いこれで食うことができているから、これをするしかないのだ、という。
夢明さんも似たようなことをどこかに書いてた。
「犬や猫が自分の尻を紙で拭かずに舐めとるのを見て、『凄い才能だ』と褒める人がいるが、それは才能があるからそれをしてるのではなく、紙が使えないからそうしているにすぎないのだ」
みたいな話。これは僕の座右の銘というか、今も心に残る至言のひとつ。それしかできないからそれやってるというのは、ホントに同感。
でも、やってるうちに好きになるというのは実際あるし、ボヤくのが楽しいという心理はあるし、文句言いながら苦労するのが楽しくて仕方ないという本音もある。苦労が好きなんだろうな、きっとorz もう一生こんなのが続くのかorz


他にやりたいけどまだやってないこと、今やるにはまだまだ力不足だなと思うことも多々。その合間に、今の自分にはおよそ力及ばないお話を頂戴して、あわあわしながらそれに追われたりするのだろうなと思う。
でも、その「あわあわ」がまた、自分の限界をひとつ上に押し上げる。


超人や偉人になりたいとは思わないし、なれるとも思ってない。そういうのは、なるべく人がなるべくしてなるもんだ。
気づいたらされていた、ということは那由多の果てにあるかもしれないけど、なることを目指してはいけないような気がする。そんなのなりたいと思わんでいいし、そんなことを思ってるヒマはなく、思い上がって悦に入るほどの才は自分にはない。
才能ないから、がんばらないとね。


と、今年一年を総括……総括か? これ(^^;)
総括すると、いっぱい働きましたが、まだまだ全然ダメです。来年も頑張りますので見捨てないでね☆ ということになりました。