神様のくれた才能とXmasプレゼントの洪水

ちょっと目先を変えて、プロとアマの話。


僕は仕事で文章を書くようになって、20と2年ばかり。
編集、ライター、最近では曲がりなりにも「作家」という肩書きで読んでいただけたりするようにもなった。もちろん、今も現役で編集もディレクションもやってるので、どこに軸足があるのが自分でもよくわからないが、「文章で食わせて貰ってる」ことだけは間違いない。


で、「好きなことが仕事になっていいね」というのはよく言われる。
確かに好きじゃなきゃこんなことやってられっか、と思うことはしばしばある。これはどんな仕事にも言えることで、「こんなことやってられっか」とみんな口にはするものの、やっぱりどっかで自分の仕事が好き、その仕事に打ち込んでる自分が好き、というところがあって、それが故に仕事を腐しながらも辞めない理由なんじゃないかなあ、と思ってる。


で、好きなことを仕事にするっていうのは必ずしも幸せなことばっかりじゃない。
仕事にする以上は常に一定以上のクオリティを要求されるし、〆切を守らなければならない。好きなことを好きなように書ける仕事ばかりではないわけで、オーダーに基づくクライアントの要望通りのことを書かなければならない仕事だってある。そういうときは自分の好みや言い分はどこかにしまっておかなきゃならない。好きだから、一家言あるから、余計にそういうのは辛い。でも、仕事だからそうせざるを得ないところは確かにある。


で、好きなことを仕事にしないで趣味や道楽にしている場合、そういうしがらみは考えないで済む。金を取ろうとか、これで食おうとか、いついつまでに絶対に間に合わせようとか、そういう拘束がない。したいことをしたいようにする。それをやっても怒られないし、やらなくても叱られない。それが趣味であり道楽であろう。
そういう、好き勝手にやったことが誰かに喜ばれたら凄く嬉しい。評価が金銭に換算されればもっと嬉しい。やりがいもある。
でも、金が絡むといつしか〆切や常に高いクオリティなんかを要求される。
「金を取ってるんだから、それくらいできて当たり前だろう」
と言われるようになる。
金を取ったらプロだ。出来がどうだろうがプロだ。
そして、それで食おうということになったら、もう完全にプロだ。
プロと認識されたら、その瞬間から自分がやりたいことだけをやってはいられなくなる。
もちろん、一山当てて借金もなく、あとは悠々自適にやりたいことだけをやるというスタイルの幸せなプロもいる。が、そんなのはごく少数だ。大抵の「プロ」は、食うために書きたくないことを書いている。その中にそっと、自分が本当に書きたいことや言いたいことを忍ばせている。書きたいわけでもないことのほうが高い評価を得ちゃって、本当にやりたいことはいつまでも脚光を浴びないなんていうのは、プロの中にだってごまんといる。


「これに専念すれば、これで食えるようになれば、好きなだけ望んだものが作れる。望んだものを望み通りに作れる環境があれば、いつでもいいものができて、プロとして食っていける」
……と、なんとなく思いがちだ。
もちろん、それでやっていける人もいるし、そうなる人もいる。でも、そういう人はやっぱり一握りであるかと思う。


僕の20と数年の経験で言うと、塗り絵は凄くうまかったり、タイトなスケジュールを言い渡されると凄い仕事をするのに、白い紙と無限の猶予時間を与えられると、何も出来なくなる人というのは少なくない。というかかなり多い。
それでも、最初の一本は傑作が作れる。名作ができる。
二本目も、ちょっと苦しいけどしたいようにできる。
そこまでは、プロであるなしに関わらず、誰でも傑作は作れる。


ところが、三本目からが難しい。
「したいようにしていいんですよ」と言われると戸惑う。一本目、二本目でいちばん訴えたいことは吐き出してしまっている。仕事も辞めた、こちらに専念するってことにして退路も断った。
ところが、何も思い浮かばない。
脚光を浴びた後、鳴かず飛ばずになる人。一本目、二本目と似たようなものしか出てこず、そのまま飽きられてしまう人。お笑い芸人が年単位で使い捨てられていくのと似たような、そういう光景がある。
なかなか出てこない三本目を、なんとか凄いものであるようにしよう、しなければならない、そういうプレッシャーに押し潰されてしまう。
「傑作であることを最初から期待されている」とか、そういうプレッシャー。お金を貰って書く身分=専業プロともなれば、尚更だ。


専業になる前は、案外といろいろなネタやモチベーションのきっかけがゴロゴロしていたりする。人付き合いであったり、会社や日常の些細な出来事であったり。受けてと同じ日常の中に自分を置いている日常人であるが故に、そうした物の見方が出来る。
ところが、専業プロになった途端、自分がオピニオンリーダーでなければいけないような錯覚に陥る。人と違う、特別な自分を意識し始めた途端に、人と同じ人の共感を得ることから遠ざかってしまう。そうして、転落しはじめてしまう。


僕の知る若手作家の中に、僕から見れば激しく嫉妬するほと才能のある書き手が二人いた。
二人とも人の慟哭を掻き毟るストーリーテリングのできる人だったが、一人は専業になった後、何もかもテーマフリーで書かせるとダメな人で、設定や世界観や〆切や、制限を受ける条件を与えるとその枠の中で最大限を発揮し、枠組みそのものをさらに膨らませるという力を持っている人だった。
もう一人はテーマについては自由にさせたほうが書ける人だったが、堅気の仕事をやめて執筆専業になった途端に書けなくなった。今にして思えば、仕事のフラストレーション、怒り、憤り、諦観、そういうものが、彼の中に「書く」という衝動を突き動かしていたのだと思う。
好きに書ける環境を得たから、好きにやれていいものを量産できるかというと、たぶんそういうことではなかったのだと思う。本業があろうが本業がきつかろうが、書きたい人は書くし、書かずにいられない人は書かざるを得ない。そういうものだ。
書かざるを得ない人というのは、止めたって書く。むしろ少しぐらい障害があったほうが書く。何かのために書いているのではなく、書くために書いている。思いついたこと、日常、何かの気懸かり、感動したこと、落ち込んだこと、そういったものの全てを「書く」という行為に転換して昇華させているのだと思う。


文章を書くという行為と楽曲を書くという行為は、成果物の形や作成過程には大いに違いがあるけれど、「書きたいから書くのだ」という点では通じるものがあるんじゃないかと思っている。
何の不自由もなく書く環境を与えられたらいいものが書ける、というものでもないんじゃないかと。「1年やるから一冊やってみないか」と言われても、できないもんはできない*1。でも、「タイムリミットは1週間。実質使えるのは4日間。分量は文庫一冊分相当。選択肢はない。やってくれ*2」と言われて、「無理無理無理絶対無理!」と言いながら、案外できてしまったりする。
そういえば、「タイムリミット(体験版)http://www.nicovideo.jp/watch/sm1181641 」は、体験版が動く僅かな期間内に作られた曲だったっけ。また、時間をたっぷり掛けた曲よりも、空から降って湧いたフレーズに引きずり回されてうっかりできた曲が、思いがけずに大ブレイクなんてのは、初音界でも珍しいことじゃなかった。


初音ミクや、MEIKOKAITOや、これから出てくる鏡音リン・レンなんかを使って曲を書いている人たちのおそらく大多数は、本業を別に持つ社会人や、フリーターであろうかと思う。もちろん、職のない方もおろうけれども、楽曲を書いている人の中に感動や衝動のない人はおそらくほとんどいないだろうと思う。
生きていくことはしんどい。思い通りにならないことはもどかしい。
だから、その気持ちを慰めるために、応援するために歌がある。
生きていくことは楽しい。思いがけないことが嬉しい。
そういう気持ちを爆発させたいときにも、歌がある。


よくアニメや小説なんかのテーマになるけど、「人間は、必ず死ぬいきもの。いつか終わりがある。だからこそ生は尊く、生きている間にできる限られたことには、必ず意味がある」というアレ。
それは、こうした曲を書くということなんかにも当てはまるのかもねー、と思う。


やはり、タガがあったほうが、タガがあるが故に、名曲は生まれるんではないかなあ、とそんなことを思った次第。


タガのない仕事よりも、タガのある仕事のほうが、絶対にいいものができるんですよ。
たぶん。きっと。






さて今日は。
やっぱり思った通り。
みんな溜めに溜めてやがった。

クリスマスプレゼントが一気に70曲以上。
しかも、どれもこれも良曲ばかり。
リスナーを悦ばせ殺す気かwww

*1:具体的な何かを指しているわけではありませんwww

*2:具体的には小説「忌火起草」の仕事がそれに当たり(ry