2.26事件
2.26事件は昭和11年2月26日に起きたクーデター事件。
主犯格の青年将校率いる1483名の兵は閣僚を襲撃殺害するも、クーデターは失敗に終わる。
2/26。
クーデターは失敗に終わった。*1
とはいえ、実際のところ件の騒動がクーデターであったのかどうか、それは僕の知るところではないし、その後どうなっていくのかについて指針を示す立場にもない。
しかし、「ボランティア/篤志の限界」「個人の限界」「事業化の必要性」など、さぼり記で触れてきた一連のテーマを考えるのに、格好の考察材料となったので、少しだけ考えをまとめておきたい。
歴史的に知られた事件と何かの符号があるわけではないのだろうが、2/26が指定されたり、首脳部が表舞台を去ったり、何かとシンボリックな騒動であった。
SNSハツネギは僕が知る限り、この数週〜数日間、会員数を減らし続けており、ほぼ減った分に相当する人数をSNSにゃっぽんは増やし続けている。*2
4000人を越えるコミュニティを、熱意と篤志だけで運営していくことには限界がある。全権を一個人が抱え込むことは、その個人が先頭に立って動くならばフットワークを軽くする一方、そうでない場合は全てを鈍重にしてしまう。
こうしたコミュニティの崩壊は、同人やネット(草の根)などでは珍しいことではないし、趣味の世界の外でも、例えば学生運動の崩壊*3、もっと遡って冒頭で挙げた事件などのように、制御できない熱意を「秩序の存続」のエネルギー源にしてはいけないという前例は、歴史上に何度となく登場する。
コミュニティの安定、継続的発展について、「利得を絡ませることはよくない」「篤志を尊重すべき」という理想論があることはよく理解しているし、その理念は素晴らしいと思う。
その反面、ボランティア、篤志、熱意の限界というのは、簡単にやってくる。
昨年末から続くSNSハツネギを巡る不穏化は、そうした不安を体現したものだと思う。SNSハツネギの代表者だけが特殊な例外だったとは思わない。
4000人からの、「総論賛成各論反対」の集団に四方八方から突き動かされることに耐えられる個人などそうはいない*4。その意味でも、個人の熱意とは別の方法で秩序を維持していく体制変更が実現できなかったことは残念だ。
人は、熱意で腰を上げ、利得で追従者を増やし、恐怖で暴走を止める。
熱意で腰を上げることができても、熱意はその個人の中だけにあって、追従者を増やすことには繋がらず、暴走は恐怖*5を用いなければ止まらない。
これは結婚生活にも似ている気がする。
結婚は熱意がなければできない。Vocaloidの楽曲のテーマとしてしばしば語られる「恋」はまさに恋愛に於ける熱意の象徴であろう。その恋という衝動は、人を大いに突き動かす。Vocaloidに打ちのめされ、突き動かされ、思い入れ、時間を奪われる多くの人々は、Vocaloidに恋をしている、その意味で「熱意で全てが賄える」という熱病に冒された状態と言っていい。恋をしているからこそ、熱意があるからこそ、腰を上げ、なんでもできると思えてくる。
そして、この熱に浮かされた状態でなければ、結婚に踏み切ることなどできない点もよく似ている。
一方で、結婚生活を維持する力は恋ではない。
恋というものは、その熱量を恒久的に維持することはできないもので、いつかは冷めていくものだ。結婚生活を維持する力は恋という浮かされたような熱ではなく、ある種の利得を共有する関係に変わることを受け入れる、ということだと思う。平たく言えば、互いに家に金を入れ共同生活を送るのが結婚生活というものだ。
Vocaloidとの関わり合いも同様ではないのか。
恋はいずれ冷めるのではないか。冷めたときはそれまで、として去っていくに任せるのもまたいいだろう。結婚生活に離婚は付きものだ。
だが、離婚はせず、しかし恋という熱意が冷めていく中でなおその状態を保っていくようにするには、ある種の共同生活のような「利得を受け入れる」という段階は必要になってくるのではないか。
かつて同人誌というのは、作ってタダで配るものだった。が、それではやっていけない。最初の数冊は熱意でそれもできるが、続けていくためには費用回収やその他の投資が必要になってくる。そうして同人誌は「売る」ものになっていく。それと同じに、Vocaloidとの生活においても、いずれ産物を売ることを継続のための利得としてさしたる抵抗もなく受け入れる時期が来るのではないか。*6
そして、「暴走」と目される状態に対しては、恐怖を持って当たるということが必要になることもあるだろう。クリプトンによる削除、制限、指針を示す判断などはそれに当たるのかもしれない。足止め、萎縮させることで暴走は止められるだろうけれども、その加減次第では連鎖的な萎縮に結びつく可能性もある。恐怖という「人間の止め方」は、使うタイミングや程度が難しい。
また、SNSハツネギで言えば、「閉鎖ボタン」「強制退会権限」などの行使を示唆することが、恐怖であった。
ハツネギ旧運営部はこの恐怖を取り除くことができず、またハツネギ創設者個人による恐怖の行使は、報酬もなく篤志でのみ動いていたハツネギ旧運営部の熱意を全て奪い取った。*7
この恐怖というものは、このように簡単に熱意を摘み取ってしまうモノであり、熱意だけで成り立つ楼閣は驚くほど短時間に崩壊する。
一連の事件は、実にわかりやすい証明例であった。
*1:会員数増大と運営の硬直化に直面したSNSハツネギは、創設者から権限移譲を受けた運営部の元、体制変更を行う予定だった。しかし、サーバ管理について物理的権限を持った創設者によって、2/26閉鎖が一方的に宣言された。これを受けて、閉鎖が実行された場合に備え、SNSにゃっぽんをその受け皿にする方向での調整が進められる。しかし創設者本人が2/26閉鎖を撤回。改めて、運営部は閉鎖するかどうかについて議決を取るものの、創設者の閉鎖しない意向が議決される。存続は確定されたものの、徹頭徹尾、創設者の意向に振り回された形になった運営部は2/26を持って解散。運営部代表他、運営部の大半はSNSハツネギを退会。創設者に管理権限が差し戻された――というのが本日の状況。カーツ大佐の王国がどのように存続していくのかについて、現状では指針は示されていないまま。
*2:SNSハツネギとSNSにゃっぽんの双方にアカウントを取り、静観しているユーザーも少なからずいるようだが、SNSハツネギは2/26後の運営方針は一切示されないまま、会員減少が続いている。
*5:暴力という意味ではなく、ペナルティや罰、規制と読み替えてもいい
*6:思い入れのある楽曲にお金を払いたい僕としては、願ったりなんだけど。
*7:SNSハツネギ創設者の資質や精神状態を問う話題については、ここではとりあえず扱わないが、4000人という数字は人を壊すには十分な圧力を持っているのだろうと思う。4000人という規模のコミュニティが、常に同じ理念や結論を共有するとは限らない。そうした規模のバラバラの要求に、熱意だけで突き動かされてきた個人が正気のまま対応することは、それが誰が担っても難しいのではないか。やはり、ひろゆき氏の精神の強靱さは(ry