進化する快感と停滞する快感

筆休めに、忘れないうちに書いておく。
音楽に限った話ではないんだけど、ここでは敢えて音楽の話として。
好きなバンドの演奏技術、好きなシンガーの歌唱力、好きなPの楽曲制作能力が向上していくのは、それはもう嬉しいことで、自分自身も含めて「上達していく快感」というのは間違いなくある。
デッドボールPの名作「永久に続く五線譜 http://www.youtube.com/watch?v=p1awPCT0SXc」の主題の中にもあったけれど、繰り返される修練の末に「上手く歌えるようになっていく」というのは多分間違いなく快感なのだと思う。
これは、奏者の話だけど、聴いている側だってヘタクソ(^^;)のものを聞かされるよりは、そりゃあうまい歌を聞きたいわけで、奏者・シンガー・作者が上達していくのを順を追って聴いていくのは快感である。


が、バンドやシンガーを追っていると、たまにこういうことが起こる。
アルバムの3枚目くらいから、なんだか「違って」きてしまう。
確かにうまくなっているし、音楽性、メッセージ性、どんどん向上している。メンバーが替わってスタート時よりもクオリティが上がってたり。例えば、比較的最近の例で言うとマリスミゼルとか。古い例で言うとEL&P*1とか。ガンズとか。僕の好きなバンドで言うとバンバンバザールとか*2


これは、バンドが、シンガーが進化した結果なのだと思う。よりよくなろうとし、或いはそれぞれのシンガー、奏者は、自分で決めたゴールや理想に近付こうとして変わっていくわけで、それに近付けば近付くほど当人達にとっての「正解」や「完成」に近付いていく。
対してそれを聴くリスナー、ファンというのは、シンガー自身が思っている完璧な理想に、彼らがまだ辿り着いていないときに、それらのシンガーのファンになる。未完成の状態を気に入って、それを追いかけるようになる。
ここがシンガーとリスナーの間にある「気づかないほどの微妙なズレ」という奴で、シンガー自身が定めた理想に近付くことは、時にリスナーにとって心地よい音楽から離れていってしまうことにも繋がる。


絵に例えることもできる。
例えばパブロ・ピカソは、その人生の中で何度となく作風を変えている。一般にはゲルニカや泣く女などのキュビスムらしいヘンテコなデッサン(^^;)の画風が「ピカソの絵」としてよく知られているし、ピカソ自身が理想を求めた結果、その作風に辿り着いたのだとも言える。*3
一方、ピカソはそれより前の時代には、写実的な作風の絵画も多く残していく。青の時代やバラ色の時代と言われる時代に描かれた絵画が好きな人にとって、その後のキュビスム的作風は「もうついて行けない」と思えてしまうケースもあるわけだ。


音楽に話を戻すと、例えばインド音楽に傾倒していた時代より前のビートルズが好きな人は、ノルウェーの森以降があんまり好きでなかったりする。ビートルズ的にはインド的なものへの傾倒が、彼らにとっての理想への接近であったとしても、それを聴いているファンが必ずしも奏者・シンガーと一体の理想に近付こうとするとは限らない。


例示はこのくらいにするとして。
要するに、「進化への快感」はあって然るべきだし、常に奏者・シンガー・作者は進化していくだろうし、それに触れる快感というのは確かにある。
だが、「停滞の快感」というべきものもあるんじゃないのかな、という話。


一連の初音ミクによって掘り返された音楽作者は、実に様々な音楽を作っている。
それらオリジナルとして発表されたものは、つい昨日書かれたばかりのもの、10年前に作ったまま放置されていたのを作り直したものなど様々。また、作られた時期に関わらず、作っている人の好みに大きく左右された音楽が散見される。
ユーロビート好きな人は、本人が意識しようとしまいとそればかり作ってしまうし、別ジャンルのものを作ってみても、結局はいちばん「うまくできてる」のは当人が好きなユーロビートに収まってしまったりする。
これが、ユーロビートプログレになろうが80年代風J-POPであろうがパンクロックだろうが70年代風アイドル歌謡であろうが、どれも同じこと。


いくつか聴いてきたもののうち、明らかに新曲なのにメロディラインはむしろ古くさい(^^;)、だけど物凄くツボにすぽっとはまって心地よい、という曲があった。
例えば、昨年10月公開の「金色のアリス http://www.youtube.com/watch?v=ArWdMgA4EB0 」という曲があるのだが、「実は斉藤由貴の未発表曲を、カバーしたもの」と言って聞かせられたら、何の違和感もなく受け入れたんじゃないかと思う。
そんなに古いとは思わないけどw、「不思議な幸せ http://www.youtube.com/watch?v=xbnRFQUlymA *4」など、「実は椎名林檎の未発表曲」と言われたら、やはりすんなり受け入れたかもしれない。
当時の斉藤由貴椎名林檎も、自分のツボにすぽっとハマった人にとっては、その後の彼女達はともかくとしても、その時点でのそれが「非常に自分の好みにぴったりだった」ということになる。
もちろん、シンガーはどんどん進化(または加齢変化)してしまうから、いつまでもあのときのままというわけには行かないわけなのだが、もし「あの頃のままで、似たような新曲が聴ける」ということになったら、標題にある停滞の快感をすんなり受け入れてしまうんじゃないかな、とも思う。


奏者・シンガーは、理想に肉薄するための進化・変化を遂げていくけれど、リスナーは必ずしもそうじゃないのかも、というこのギャップ。
それこそ、奏者・シンガーは「良かれ」と思って進化し、リスナーも自分の進化に絶対に付いてくるはずだと確信して進むのだが、リスナー自身はそうした進化に首を傾げて立ち止まり、「前のほうがよかったな」なんてことを言い出す始末w
リスナーは、自分にとって快感な、ラジオのチューニングがぴったりハマった音楽にできればずっと浸っていたいわけで、発信者の「もっともっと」なんかカンケーねえ! とか思ってるかもしれないわけだ。
この苦悩というのは、向上心のある人ほど体験することが多いのではないだろうか。


「別に、新しいことをやるために、前の良かったことを止めろなんて言ってない。変なことしてないで、前と同じことやってくれ」
こういうオーダーに困惑してる奏者・シンガー・作者も、もしかしたらいるのかもしれないなあ、と思ってみた。


個人的には70年代、80年代の雰囲気を保ったままのまったくの新曲がボロボロと出てくるという、00年代のメジャーな商業音楽シーンではまずあり得ないような音楽状況を、結構楽しんでいたりもする。
そういえば、初音ミクでカバーというのは結構たくさんあるように思うんだけど、ボカロでまりちゃんずのカバーってのは、まだなかった気がする。
だれかやんねえかなあw

*1:お好きな人はPが「パウエル」か「パーマー」かで好みが違う。

*2:バンバンバザールは、今挙げた例の中では最も知られてないだろうと思うのだが、アルバム一枚目のときのメンバーは、リーダーでリードボーカルの福島康之のみが残っていて、その他のメンバーは全て入れ替わって現在に続く。当初、バンジョー、テナーサックス、コントラバスが標準で入ったJIVE系ブルースジャズバンドだったのだが、進化と変遷を経て現在はウクレレバンドだったりなんかいろいろ。個人的には四枚目と一枚目がベストで、六枚目からは好みでなくなった。今も夏になると四枚目を欠かさず聴く。

*3:さらに新古典主義にいっちゃうわけなのだが、そっちはあまり紹介されない。

*4:これは雌豚閣下が歌ったVer.