世界に進出するのか、世界を招き入れるのか

唐突だが、アメリカ人というのは丘の向こうに何があるのか行って確かめたくなる人種らしい。血液型占いはともかくとしても、B型が多く遺伝子的には「好奇心が強く、開拓精神が強い」のだそう。海の向こうの新大陸でも、空の向こうの月でも外宇宙でも、世界の果ての果てまで行ってみないと気が済まない、フロンティアスピリッツに溢れるのがアメリカ人の基本性質。応用よりも、研究・開発が旺盛なのだそう。
つまり、「どこにでも一番乗りしてアメリカの旗を立てたい」というのがアメリカ人。


中国人というのは繁殖力旺盛だが、出向いていって根を下ろした先々を「中国にする」という行動を取るらしい。チャイナタウンを作り、文化的に中国を喧伝する……のではなくて、根を下ろした場所を中国にしてしまう。家族主義に見られる組織的行動、繁殖した中国人同士で作られたリトル中国による浸食と拡大。よく、「ロシア人の基本性質は東進と膨張である」と言われるけど、中国人の基本性質はそれを上回る膨張と「同化」であると言える。
つまり、「どこにでも根を下ろしてそこを中国にしたい」というのが中国人。


翻って日本人というのは中国人とは別の意味で順応力と同化力、応用力が旺盛なのが特色なのだそうで、文化的に異質なものでも次々に取り込んでしまう。アメリカ人とは若干別種だけれど、好奇心が強く、新しいものへの挑戦心は強い。*1
アメリカ人との違いで言うと、「アメリカ人が凄い勢いで開いていった地平を、中国にするのが中国人。快適にするのが日本人」なのだそう。
中国人との違いで言うと、「世界を中国にしようとするのが中国人。日本の中に世界を持ち込もうとするのが日本人」なのだとか。
そういえば、東京にいると世界中の「本格的な料理」が食える。ニューヨークのように「人種のるつぼとして無国籍な混合料理が生まれる」のでもなければ、パリのように「純粋至高のフレンチだけが揃う」のでもなく、「和食もフレンチも中華もイタリアンも、東京でなんでも揃う」という、「世界を自分の手元に集める」という感覚は、確かにあまり意識しないけど、実に日本的。無節操と言える一方、流入文化に対する順応力が高く、寛容であるが故にそうなるのかも。





ここからが本題。
ボカロ音楽(=著作権についての制約を受けない*2が、権利行使も出来ない)というものに対して、今様々な動きが見られる。
商業の側からは、様々な見られ方をしている。


まず、「著作権侵害され放題の音楽などとんでもない!」と、積極的な排除がされるケース。昨年のTBS事件やGoogle八分事件にもし恣意的な背景があったとしたら、そういうところかもしれない。


次に、排除まではしないまでもあまりいい顔をしない、保守的な態度がひとつ。「同人音楽であろうとなかろうと、著作権管理の既存の枠組みの中に押し込めてしまえ」という管理方法で、結果的に現在のカオスのような使われ方を制限しようというもので、JASRAC管理に委託しようとしたみっくみくにしてあげる♪事件などがこれに抵触してくる。


それを経て、今度は「同人出身の音楽家を、メジャーに取り立てる/引き上げることで、同人と縁を切らせる」という、青田買いが起きてくる。やはり有名になれる、ちゃんとお金をもらえるということになれば欲も出てくるから、それにのっかる人も出てこないとは限らないし、もちろんそれは既存の価値観に評価されたということで、決して悪いことではない。ないのだが、やはり「CGMで俺たちが育てたのに、勝手にプロになった裏切り者」という妬みから逃れるのは難しい。
同人CDを出しても同じことが言われてしまうケースはあるわけで、「無償で得られた価値観を換金する行為」に対する風当たりは実に強い。これが良いことなのかどうかと言われると悩ましいところなのだけど、僕個人としては「良いと思ったものには金を払いたい。良くなかったものに払わずに済む方法を見つけたい」という思いは変わらない。


同人のままで終わるのか、プロになるのか。
プロになる=必ずしも専業でないにせよ、音楽を金に換える行為の是非はいかがなものか。
プロになれば、本当に音楽はずっと残るのか?
CDを出すことが、音楽をずっと残すことに繋がるのか?
などなど、ひとつひとつ見ていくと切りがないほど多くの課題があるのだが……。


CDを出すというのは、それが「同人CD」ではないのだとすると、「プロと同じ実力を持ったアマチュアがプロの土俵に上がって、プロと同じ条件で勝負をする」という意味になるわけで、実質「プロがやってる過酷な生存競争に、プロ側の条件で参加する」ということになる。
もちろん、それを勝ち抜いてブレイクするツワモノが出てくることで、ボカロ音楽が一般に浸透する……というのを夢みることもできなくはない。
が、「相手の土俵で、相手の課したルールで」ということになると、ボカロ音楽が根ざしているところの、「無償かそれに近い条件で自由に聴ける」というメリットは消失する。「タダだから許せるうまさ」も、金を取るとなると途端にハードルが高くなったりするわけで、金を取っても耐えられるかどうか? という問いを投げかけられ、さらにセールス・マーケティングをかっちりやってくる「売るプロ」に支えられた商業音楽の世界に、丸腰のボカロ音楽が挑んでも、正直勝ち目は少ない。
それこそ「内容では負けていない。でも、物量には勝てない」という奴で、アメリカに戦争を挑んで負けた日本のような展開になるのは目に見えている。


ボカロ音楽の出口論には幾つかの目指すべき方向性があると思う。


ひとつには、「ボカロ音楽の価値を金に換えるには?」というもの。これは、CGM発・ボカロ音楽が「世界に進出する」には? という考え方。金を取るということについて快く思われないかもしれないけど、タダでばらまく、しかしCD(店頭で買うしかない)でしか音楽を手に入れられない人にタダでばらまこうと思ったら、身銭を切って配るしかないわけで、金を取ってもなお売れるという商業音楽には、体力(=資金力)的にいって、まるで敵わない。メジャーになるためには身銭を切り続けなければならないということになれば、わざわざそんなことに挑戦する人はいないから、結果として既存の枠組みがそうであるように、「エージェントに委ねて、価値を切り売りする」という形に落ち着いてしまうだろうと思う。エージェントが有能で、マーケティングが重厚であるほど、音楽を作った元の音楽家の取り分は少なくなる。これが現状の音楽業界の実態だ。


もうひとつ、逆の考え方をするのはどうだろう。
つまり、「CGM界という無償の世界から、より大きな有償で音楽を売買する世界に出て行く」のではなくて、「より大きな、有償で音楽を売買している世界でしか音楽を聴いたことがない人達を、無償で音楽を聴けるCGM界に招き入れる」という発想。
インターネットが発達したのは通信料が従量課金から固定料金に変化し、そこにある情報の多くが無償で手に入ることが知れ渡ったためだ。
人間は安いもの、無償のものに飛びつく生き物で、特に付加価値や実体を伴わないコンテンツについては、安ければ安いほど、タダならなおよい、と思っている。
昨今、「安かろう悪かろう、でも安いならそれも良かろう」という意識の後押しは、高品質な商品より少しくらい質が落ちても安いものを求める、という経済現象を起こした。*3


出口論がやりとりされる中で、「有償でCD(や、ダウンロード販売)を売るにしても、同じものが無償でネットに流通しているなら、誰も金を払ってまで有償のCDは買わないのではないか」という意見がある。もっともな話で、この方向を押し進めていくなら、「こっちにタダの音楽がありますよ、音楽にお金を払うのがバカらしいと思うなら、こちらへどうぞ!」と旗を振るべきなのである。
つまり、【CGMからの出口論】ではなくて、【CGMへの入り口論】を語るべき、ということだ。
だが、CGM(または、ボカロ音楽というコミュニティの内部、と言い換えてもいい)から外に出る方法や、CGMの中で楽しくやる方法はいろいろと考えられているものの、「タダで音楽を楽しめる世界への誘い」という方法論は実はあまり活発にはされていないように思える。


僕などは「いいから金を払わせやがれの人」なので、評価を金銭価値に変えて償還するするには? というのを考えっぱなしなのだけど、それじゃいくないという人から、「外の世界にいる音楽に金を払っている人を、こっちの世界に連れてくるには?」という議論が沸いてこないことについては「?」と思う。


これが、ボカロ界、しいてはCGM界が別に一枚板ではないということの証左でもある(^^;)
音楽を聴いているだけの人、無償で聞きたい人、金儲けをする気がない人にとっては、「タダの音楽」は堅持したい。
でも、音楽を作っている人、大儲けではないにせよ小遣いがもらえたら嬉しい人にとっては、「音楽を売る機会」の完全否定はしにくい。自身も「タダの音楽」を楽しんでいるとすれば、GIVE & TAKEの精神からすれば「タダで使わせろ、オレのを聞くなら金払え」とは言いにくいから、「音楽を売らせろ」というのを声を大にしては言いづらい。
「タダの音楽なんて大したことがないし、聞かない。オレは金を払った音楽だけを聴いている。だからオレの音楽にも金を払え」とまで言える人、堂々とそれを宣言できる人はごく少数で、そして宣言したら最後、CGM界からは総スカンになる。


もっとも、現状のCGM界、ボカロ界というのはまだまだごく小さなコミュニティであるわけで、おっくせんまんの金が動く商業音楽界から見れば大した影響力もない(からこそ、せいぜいが青田買いの対象くらいにしか思われていない)けれど、もし「商業音楽より、タダの音楽」という方向に、人が雪崩を打って流れてくるようになったら、それはそれで面白いかもしれない。


音楽に金を払うのが厭だ! と言う人は、「CGMからの出口論」ではなく「CGMへの入り口論」をもっと強く考えるべきだと思うのだ。
少しでも金を払いたくない消費者には強く訴えられるテーマだと思う。
ただ、少しでも金を稼ぎたい「中間で音楽を仲介する流通業者」には、極めて評判の悪いテーマだろうとも思うけど(^^;)




このテーマを押し進めるときに障害になるのが、実はボカロ音楽を押し進めるコアになってきた「初音ミク」「鏡音リン・レン」「KAITO」「MEIKO」というキャラクター設定やそれに伴うストーリー、キャラクターソングなどの類かもしれない。
萌えなりヲタなりの琴線に響いてブレイクしたのはこれらの要素があったからだが、もし出口論を考えるとなると、萌え/ヲタ的な素養がない人からは「初音ミク? 誰それ?」「ちょっとヲタくさくて聞きたくない」という障害に変わってしまう恐れがある。これは出口論が入り口論に変わっても同じことだ。
最終的には、作られた曲の善し悪しが評価を決めるようにはなっていくだろうけれども、そこまで辿り着かせるための「強み」と「ネック」は、実は表裏一体なのかもしれない。


出口/入り口論に通じるところだが、初音ミクに興味のない人にボカロ音楽を聞かせようとするのは、本当に難しい。*4
これはボカロ音楽に限った話ではなくて、商業音楽のマーケティングやプロモーションをしているプロ中のプロも、如何にして「興味のない人の興味を惹くか?」という、関係がありそうに見えて実は直接曲そのものとは関係のないことに、全身全霊を掛けている。
そういうことに掛けてはプロ中のプロと、同じ顧客層を奪い合おうっていうのなら、そのプロには絶対に勝てない「でも、タダで聴けるよ?」というのを、もっと強く打ち出すようにしたほうがいいんじゃないかなあ、とか思うのだった。


iTunesが固定料金制を模索してるらしい。
あそこ、週替わりとかで新人ミュージシャンの新曲を無償配信したりしてて、「タダならいっぺん聴いてみるか」というプロモーションになってるんだけど、あそこに「毎日無償、ずーっと無償」っていう潜り込み方ができたら、プロモーションとしては大きいよなー、とか思った。
もちろん、同じことはピアプロやニコ動やzoomeではすでに実現されていることなんだけど、ピアプロやニコ動やzoomeは「予めそれとわかっている集団のコミュニティ」であって、「興味がない人が多数を占める、外の世界」ではない。
アピール、アプローチ、プロモーションというのは、「最初からよく知っていて興味のある人に、最後の一押しをする」というものと、「最初からまったく知らない興味がない人に、最初の一押しをする」というものがある。
一連のボカロ音楽を巡る出口論/入り口論が、「最後の一押し」を目指しているのか「最初の一押し」を模索しているのかは、いろいろ興味が尽きない。




……というようなことを、デPCD「DeadBall Project Vol.1」*5を聴きながらつろつろ書いてリフレッシュ。

*1:旅行先で現地の食べ物に挑戦するのは、アメリカ人と日本人が多く、どんな僻地に行っても中華料理を作り始めるのが中国人、どんな僻地に行ってもキャンベルのスープの缶詰を開けたがるのが英仏人、というジョークがある。

*2:受けない、というのは解釈としては諌さか乱暴で、実際には著作権者が望もうと望むまいと、曲の著作権は保護されている。ただ、傾向としてCGMで育まれるボカロ音楽については、著作権を強く主張しないのが美徳とされている側面が強いため、著作物の二次創作についての制約は弱い、と見なしてよいのだと思う。

*3:国産品から中国製へのあらゆる産業製品のシフトがそれに当たるが、質を軽視しすぎたツケから、今揺り戻しが起きている。

*4:最近は、「歌ってみた」を先に聞かせたり、初音ミクが登場しないPVを選んで見せるようにしている。

*5:通販で買いましたw