遊び場造り

遊園地の造営みたいな仕事というのを、過去に何度かやった。
ガメル連邦(1988)とか、ハガキの帝国(1995)とか、Network-GL(1992)とか、そういう手のもの。
前提・舞台・ルールと運用方法論と若干のお約束とを作っていく。
超-1(2006)や遺伝記(2008)もその延長線上にあるものと言える。ルーツは読者ページであったり、ネットゲームであったりするわけでw
「よってたかってなんかする」というのが好きなのだと思う。
で、そこからいろいろな才能がスピンオフしていくのを見るのが、またたまらなく楽しかったりする。ガメル連邦のときは、結果的に後々業界人、或いはプロ作家になってしまった人というのを結構たくさん輩出している。僕に見返りはあんまりないけどw、遊び場を作ったことで、そういう才能が世に出る助けになってたんだとしたら、遊び場作り職人冥利に尽きる。
超-1を経て「超」怖い話や恐怖箱に書く才能を見つけられたことも、それと同じであろうと思う。彼等が例えば大ヒット作を今後飛ばすことになったとしても、別に僕自身には見返りとかピンハネとかそういうのはないんだけどw、やっぱりそういう人が出てくるきっかけ作りに参与できたのだと思えば、大変嬉しい。
才能の類というのは稀有なものというわけでもなくて、恐らく誰でも何らかの才能を持っているんだろなと思うときがある。才能をばんばん無駄遣いする類の人々を見ていてますますそう思う。
反面、自分が望んだ才能が常に自分の中にあるとは限らなくて、望んでもいない才能があることに当人が気付かないというケースのほうが圧倒的に多いんじゃないかとも思う。
が、「やってみたらできた。自分がこんなことできるとは思いもしなかった」という形で才能が世に出ることはあるわけで、ガメル連邦や超-1はそういう、才能気付かせ装置であったのかもしれないなあ、と仕組みを考えた当人が後になってから気付く……というのも、いかがなものかと思う。
恐らく遺伝記も同様だろうなと思う。よく練って作られた良くできた完成品を持ち寄って品評会をする、という、一般的な意味でのコンテストとは若干傾向が違う。「読者・応募者が採点する」というところだけに目を奪われていると、本質に気付きにくい。前にもヒントを出したけど、遺伝記は椅子取りゲーム。というより、領地の奪い合いをするゲーム(オセロとか囲碁とか)に近いのかもしれない。作品内容に付けられる点数をもって、点数を競うゲーム、と考えてしまうのはやや表層的。
「ゲーム」の醍醐味というのは戦略と駆け引きにあるが、一般的な品評会にだって駆け引きはある。早めに出して圧倒するとか、傾向を踏まえて最後に出すとか、審査員の傾向と対策を考えて好みのモノを出すとか。そういうことができる人というのは、結局、「いろいろなテクニックを使い分けられる」人であるわけで、TPOに合わせて武器の先っちょに突いている鏃の形を変えられるほうが、狩りの成功率は高くなるのと同じ。
遺伝記にもゲーム的な戦略性というのはあるけれど、一般的な品評会とは求められる戦略性が違う。いいのを出すことはもちろん重要だけど、いいものさえ出していれば優位に立てるというようなことはないかもしれない。そこにまた面白さを感じてしまう。面白さを感じるポイントはそこだけでもなくて、二重三重四重に、違う堪能ポイントがあるのではないかと思う。僕自身が意識して仕掛けた遺伝記のルールは、今のところさほど多くはないのだけれど、楽しみ方は思いつく限りで5〜6通り以上ある。たぶん、僕が思いつかなかったやり方楽しみ方を見つけて拡張する人も出てくるんじゃないかな、というのを期待してもいる。
遊び場として作られた遊園地、そこにある遊具は、予め決められた動作をするように作られている。けれども、想定外の使い方をすることで、二重にも三重にも面白さが膨らむことはよくあることだ。
日本人はルールを絶対視する傾向が強いんだそうで、スポーツの国際大会などではしばしばそのルールを決める争いに負けて、不利なルールに追い込まれてしまうことがよくある。「ルールが公平なら勝てるのに」という悔しがり方を見かけるけど、ルール作り、勝敗の条件作りの時点で既に勝負は始まっている、とも言える。
一方で、ルール造りに参画できない場合はどうするかというと、「自分に都合がいいように解釈して、それを追従者や設計者に納得させてしまう」ということで対応は可能だなという気がする。憲法解釈みたいなもんなのだがw、条文はそのまま、しかし拡大解釈や我田引水な解釈で自分に有利な運用方法を考えるわけだ。
もちろん、行きすぎればルールが改正されたり厳格化されたりするわけなのだが*1、ルールの設計者としては用意したルールの中で遊んで欲しいと思う反面、参加者に度肝を抜かれたかったり、掌の上から飛びだしてほしかったり、想像・予想・想定の上を行かれることを、いつもどこかで期待している。マゾである。
遊び場造りの醍醐味というのは、やはりそのへんの「想定外」にあるんじゃないかなあ、とか思う。だからこそ、この遊園地の造営みたいな仕事が面白くてたまらんのだ。これは多分、本を書くことそのもの、本を編むことそのものより楽しいかもしれない。
この感覚は、普通の品評会じゃ楽しめないものであるわけなのだった。

*1:これもF1などの国際大会でしばしば日本がやられてるw 技術革新や工夫で日本勢が勝ち始めると、それを規制するルールが頭をもたげる、というのは今に始まったことではない。