怖い話

丑三つ時なので絶賛仕事中。
この時間帯に限って、実話怪談がするする読めるのは何故なんだろうorz
今、6月発売の【恐怖箱 蟻地獄】(竹書房刊)の原稿を絶賛整理読み分け中。


これまで何度となく口酸っぱく言い重ねてきたように、やっぱ他人様の書いた怪談て怖い。
仕事じゃなかったら極力読みたくないよなあ、と思う。
この話のひとつひとつに体験者がいて、彼等彼女等は、言葉ではうまく言い表せないようなおっかない思いをしているわけで。
「うまく言えないけど怖かった!」
その、〈うまく言えない怖さ〉を聞いて、「こうなの? こうなの? こんなふうに怖かったの?」と再現するのが怪談屋さんの仕事なわけなのだけど、その恐怖の本質、その状況の現実感をうまく再現できたとしても、必ずしも体験者さんが喜んでくれるとばかりは限らない。
怖すぎて見たくないという人もいるし、そうだった、自分はこのように怖かったのだ、とさらなる熱弁を奮う人もいる。
なんというか、実話怪談は「拒絶」&「不信」と常に隣り合わせで、またそれに対して証拠を並べ立てて真っ向から反論というのもしにくく、なんとももどかしい、わかってもらえにくい体験談の記録であるのだなあ、とつくづく思う。
「でも見た。確かに見たんだよ。凄く怖かったんだ」
見たものの実在性を検証することは、たぶん少なくとも僕が実話怪談と思って関わっている体験談の本質ではないのだと思う。
「それは怖かった。誰も信じてくれないということが、自分の正気が疑われるのではないかという懸念がまた怖かった」
見ている最中だけでなく、「何かを見た記憶」を日常の中に持ち帰ってしまうこと、それについて、日常を共にしている人々にその恐怖感を伝えにくい、説明しにくく、信用されにくい――そういう、孤独感を抱えた体験者の人は多いような気がする。
だから、見える人は見える人同士で安心しあう。故に、見える人と一度ご縁ができると、見えた経験がある人=安心して確認しあえる見えた仲間wとのネットワークが、芋づる式に出てくることがある。いっぱい話を聞いていると、そういう「ずるずるずるずる」と話が続くことがたまにあるわけなのだが、怪談を生業にしている、または「なんでか怪談が集まってしまう人」というのは、多かれ少なかれこういう「見えた人の安堵感の輪」の中に組み入れられてしまっているのでわあるまいかとも思う。
良いのか悪いのかよくわからんけど、「検証したい人*1」や「否定的結論から入る人」が怪談に巡り会いにくいのは、たぶんそういう「見えたことを安心したい人」から拒絶されてるせいかもしれない。
その意味で「なんでも聞く人*2」は、秘密を抱え続ける孤独感に耐えきれなくなった人が安堵を求める対象――王様の耳はロバの耳と怒鳴るために掘られた穴みたいな感じで、怖い話を「捨て聞かされる」のではあるまいか。


ところで。
「今まであんまり人に話したことがない」
という怪談を聞かされるとき、それが本当*3かどうかというのを感じ取る、割と簡単な方法というのがある。
これはホントに興味深い話なのだけど、実体験を語るとき、人は「いきなりオチから喋り始める」ことが多い。
「か、金縛りに遭ったよ!」とか「幽霊を見たよ!」とか。
なんだなんだ、何があったと宥め賺しながら話を進めていくと、これまたオチに近いところから話し始め、周辺情報、例えば「いつ頃の話」「どこで」「どういうシチュエーションで」「誰が」といった付帯情報*4は、後から出てくる。
また、記憶をいったりきたりしながらなので、何度も同じ話を繰り返していたり、また記憶が突然途絶えたりする。
これを、「時系列順」や「重要な要点の順」にまとめ直して、「つまりこう言いたかった!」と体験者の方の喉のつかえを落とすのが、実話怪談屋のお仕事。たぶん。
直接話を聞くときや、チャットなんかで話を得るときは、だいたいこのケースで、メールで書き送ってもらうときはまた少し違う。
メールだと、やはり落ち着いて推敲しながら書けるせいか、かなり「順番」に語ることができるらしい。
が、やはり欠落しているピースがいっぱいあったり、説明が付かない何かが残っていたりする。それについて、「こうですか?」と伺いの返信をお送りすると、「そう。それ!」と補足される。
そういうメールの往還から、全体像がじわーっと浮かび上がってくることが多々あるわけで、なんか原稿じゃない文章(主にメール)*5を、この十数年間毎日書いてるような気がする。
おもしろいのは、一度自分の体験を「順を追って自力で説明する」または「全体像を整理し直したもの=実話怪談原稿」ということができると、少なくともその体験談に限っては何度でも、順を追ってちゃんと人に話せるようになるらしい。
体験者の人からお話をいただくということは、そのままその体験者の人にとっても「自分の体験を整理する機会」であるのかもしれない。それを聞かされちゃった側も、やっぱり聴いただけで貯め込んでいくとどんどんどよーんとした気分になっちゃうので、どこかでまとめなおして「つまりこれはこういうことだった」と形=文章に起こすことで、スッキリできる。
そう。
聞いた体験談って、怪談に起こし終えると凄くスッキリする。
東のエデン的に言えばジョニーが満足する感じ。
そうすると、校了してしまえば後はその怪談には関わらないで済む。


つまり体験者の人も、そして実は僕ら怪談屋側も、「体験談を経て得た恐怖と縁を切るために、怪談に書き起こして体験を供養している」んじゃないかな、と思ったりもする。


実話怪談。
僕にとっては忌み仕事である。
怖い話は怖いから嫌い。なのに続く理由はそこかもしれない。

*1:証拠を欲しがる人

*2:お人好し、或いは相談をされやすい人

*3:体験者が何らかの恐怖を実際に感じた

*4:状況を再現するためには、むしろそっちが重要

*5:blogは自主トレw