動物の末期についての思い出

昔、実家でハムスターを飼っていた。
ぼちぼちお産だなと思っていたら、翌朝、血痕だけが残っていて子ネズミはいなかった。
母ネズミが食べてしまったらしい。
生まれて間もないというか、この世に生を受けている時間が何分あったかも怪しい。


ハムスターはアパート住まいしていた頃にも飼っていた。
友人の作家に「生きものと生もの、どっちがいい?」と聞いたら「生き物」と言われたので、「生きたスッポン」贈ったら、ペットとして飼われてしまったことがあったのだが、そのお返しとして「生き物と生もの、どっちがいいですか」と問われ「生き物!」と答えてわくわくしてたら、ハムスターが来たことがあった。
そいつは、うちに確か3年ほどいた。
最後は、だんだん動かなくなっていって、温めても温めても温めてもどんどんぐったりしていって、すぅ、と死んだ。ひどく凹んだ。


それより前、やはりアパート住まいの頃に、秋葉原の駅で傷鳥の鳩を拾ったことがあって、ダメだろうと思いながらも一生懸命世話をしたら、案外元気になっちゃって、そのまましばらくうちに居着いた。
賢い奴で、呼べば飛んでくる。鷹匠のように、鳩匠を目指そうかと真剣に考えたくらい。ジョン=シルバー*1と名付けられた鳩は、事故で死んだ。
鳥に限らず小動物を飼っているとたまに起こるのだそうで、寝返りを打ったときに背中にいたのだった。圧死させてしまった。これは泣いた。


それからしばらくは動物を飼うことはなかった。
猫はもっぱら、「外猫と仲良くする」程度の距離感だった。
気づくとこなくなって、気づくと新顔がやってきている、というくらいの。「どこかに旅だったのだろう」と都合良く考えるようにしていたけれども、そんなはずはない。猫の縄張り=行動半径は400mくらいなのだそうで、もちろん縄張り争いに負けてはじき出され、流浪=迷子になって戻らない猫もいるだろうが、多くの場合縄張り争いに負けた外猫のたどる末路は、保健所か事故死か野垂れ死にだったのではないかと思う。
「旅に出た」というのは、本当に都合の良すぎる考え方だ。


実家には僕がいた頃から飼われていた「ジュン」という柴犬がいた。
酷く臆病な雌で、見知らぬ人が来ると小屋に隠れて鳴くこともしない。散歩に行きたくなると、鳴いて家人をせき立てた。
ジュンはもうずいぶん前に死んで、その遺体は老父が愛鷹山のどこかに一人で埋めに行ったらしい。どこに埋めたのかは僕らは誰も知らないし、老父も滅多にこない林道にふいと誘い込まれるように入り、そこに埋めてしまったので今はどこかもうわからない、と前に言ってた記憶がある。
そのジュンの最期の話を、今日初めて聞いた。
ジュンはいつものように「散歩に連れて行け」と鳴いたらしい。
兄弟二人が家を出た後のことで、ジュンの散歩は老母の勤めになっていた。老母は「誰も面倒みないんだから」とずいぶんぼやいていたが、どちらかというと運動不足だったから、その解消には役立っていたはずだ。と、思う。
家から出て、しかしいつもの散歩コースほど遠くには行かず、実家のすぐ隣の家の側溝辺りに、ちょろり、と。本当にちょろっとだけ小便をした。
それが済むとすぐに、家に戻ろう、とリードを引いた。
実家の玄関先、自分の犬小屋の前まで来たジュンは、そこでぱたりと横になった。
それっきりだった、そうだ。


ジュンはもうずいぶんな年寄りだったと思う。病気らしい病気もなかったと記憶している。だからおそらく老衰だったのだろうと思うのだが、そんな死に方アリか。
道理でうちの親がやたらと「最期はぽっくりいきたいねえ」とか言い出すわけだ。
ジュンが死んで一番堪えたのは老母だったようで、「もう生き物は飼わない」と宣言して、実際それ以来実家では動物は飼っていない。それ以前はインコだの九官鳥だのが入れ替わりいたような記憶があるのだが、ジュンが最後だったと思う。


覚悟はできてんだけどな。
せかすつもりはない。惜しむ気持ちは強い。
苦しませたくない、楽にさせたいと思う気持ちもある。
ぎりぎりまで少しでも生きて欲しくもある。
ただ、そのどれもが僕の、飼い主のエゴでしかないようにも思う。
麟太郎は、なんというか逃げようとしない猫だったと思う。思っていた。あまり抵抗もしないから、諦観的だなあと思っていた。
今回、二度ほど入院しているのだが、それぞれの病院の担当獣医師からは「凄く抵抗します」と言われて驚いた。僕はそこまで抵抗されたことないし、流動食でもそんな抵抗されたことはない。
今、最晩年を生きる麟太郎は、一日の大半を僕の視界に入るところで過ごしている。仕事中はもちろん、仕事机の左側に座り、僕の半径30cm以内でこちらを見ている。か、尻を向けている。
飯どき、リビングに降りると、暖かくしてある仕事部屋から出てきてリビングにやってきて、テレビの横辺りに陣取る。僕らの視界がそちらに向いているからだろうと思う。
用が済んで仕事部屋に戻ると、また、僕がいるところに付いてくる。
単に暖かいところを探して付いてくるだけなのだろうとも思うけれども、とりあえず麟太郎は僕が近くにいることを許している、とも思える。思いたい。
自分が麟太郎の立場だったら。
楽にして欲しいと思うだろうか。
少しでも長く生きたいと思うだろうか。何のために。
生きていたいのは、気に入った人たちと少しでも一緒にいたいからではないのか。
その人たちを視界の隅に据えておきたいからではないか。
麟太郎が僕を見ている間は、だから僕は麟太郎が生きたいを思うのを手助けしたいし、そうすべきだし、そうすることしかできない。それはもちろんやはりエゴで、勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれない。後悔したくないというのも勝手な話だ。
だ、けれども。


麟太郎は竹書房に移ってからの「超」怖い話、恐怖箱をずっと間近で見守ってきた。猫の姿をした催促専門の編集者のようなもので、なんとなく逃避していると「それで原稿は書かなくてもいいのか」と目で責めてくる。編集さんの生霊が乗り移っているかのような。
ずっと見守っていてほしい、とそう願うのもまたエゴなのだが。

*1:片足を怪我していたから。そしてそれは直らなかった