下拵えの否定

ザ・コーヴ絡みで。
日本に限らないんだけどイルカ漁への批判が支持される理由で大きいのは、「残酷である」(絵面が)ということに尽きるかもしれない。
イルカは群れ(家族)をボートで追いながら複数の漁船を並べて浅瀬のある入り江に追い立てる追い込み漁形式で行われてきた。一頭単位ではなく、漁協に属する漁船が共同で行わなければならないので油代も掛かるが、それに見入るだけのまとまった漁獲もあった。ただ、そうホイホイと群れが掛かるわけでもないので、ちょっと特別な漁、という性格のものではあったかもしれない。


浅瀬にまで追い上げたところで、包丁を入れていくので海が血で真っ赤になる。このあたり、「惨劇」に見えるのだろうし、とどめを刺して楽にしてやるのではなく、包丁を入れた後も暴れさせて失血死させる形になるので、「不必要に苦しみを与える残虐な漁法」という誹りを受けることにもなる。


だが、ここに反論をしておきたい。
この、「海を血で真っ赤に染める」「とどめを刺さないで失血死させる」というのは、イルカという食材の下処理方法として、これほど理に適ったものはない。


イルカに限らないけど、そもそも全身運動で泳ぐ海獣類というのは、全身の筋肉にくまなく酸素を送り続けなければならないので、ヘモグロビン濃度が濃い。血が濃い、と言い換えてもいい。
つまり、料理で言うと血抜きという下拵えをしっかりやらないとならない食材であるわけだ。


日本人ならピンと来る魚介の下処理では活け締め、野締めというのがある。
水揚げ直後、まだ生きているうちに船上で魚体を締めてしまうというものだが、この場合の「締める」というのは、生きているうちに血管に包丁を入れ、血を抜くというもの。
死んでしまうと血は固形化して体組織の中に残ってしまう。鬱血という状態だ。こうなると、肉の中に血の味が染みついて臭みを出す。
活け締めは血が液体として流れているうちに抜き出してしまうので、肉に染みこむ量が減る。臭みが出ない分だけ旨いわけだ。


食材としてのイルカは、これまた血生臭いというかレバーっぽいというか、とにかく血と油の臭いがきついものであるわけで、より一層、この下拵えが重要になる。
イルカが海中にいるうちに動脈に包丁を入れて失血させるというとなんだか残酷なようだが、これは単純に活け締め、野締めをしているに過ぎない。
例えはよろしくないが、風呂でリストカットすると出血しやすいのと同じで、海水に傷口を晒したほうが効率よく血が抜ける。特に、心臓が動いているうちであれば、動脈からどんどん血が出ていくので血抜きの効率はさらによくなる。


繰り返すが、イルカ漁における活け締めは、イルカを痛めつけて殺すことが目的じゃない。
食材として食べるために獲っているわけで、おいしく食べるための工夫として、海中にいるうちに血抜きをする、活け締め、野締めという技法が発達した、ということだ。これは海洋タンパク源を如何に美味に(食べやすく)するか、ということに対して培われてきたものだ。
イルカ食が文化とは思えない云々という意見を聞くことがあるが、「食べやすくする」「美味しくする」という工夫が凝らされるということ、その工夫が歳月を重ねて引き継がれ、発展させ続けられてくるということを食文化とは言わせないつもりなのだろうか?
例えばフカヒレや干し貝柱、干し鮑などは、茹でて干して戻してまた蒸して、というくらい工程を踏んで食材を美味しくする工夫を重ねている。そうした料理を「食文化」と褒め称えるのと、「下拵えの工夫」を重ねることとの間に、どれだけの違いがあるというのか?


この手の、調理方法(下拵えの技法)に対する批判というのは、鯨・イルカに限った話ではない。
鯛、鰺、伊勢エビなどの活け作り、魚類の活け締め、シロウオなどの躍り食いについても、残酷であり無用の苦しみを与えている、として批判の対象にされ始めている。
ここで譲ると、次は「活け作り禁止」「躍り食い禁止」にシフトするだけだ。
実際、

日本食における、瀕死のロブスターや、空気中で窒息死しかけている魚介が、苦しみながら死んでいくのを眺めながらの食事をさせられるのは、動物(魚介)に不必要な苦しみを与え残虐な殺戮を見物しながらの食事を強制する悪趣味極まりないものである。我々は皇帝ネロではない。
日本食は極めて野蛮で残酷で非人道的な食習慣である。

というようなことを、大まじめで主張する動物愛護運動家が、ハワイ、オーストラリアなどには現れ始めている。
活け作りでなくても、日本の旅館の宴会料理などでは定番の「姿造り」も、死体に死体を盛りつける、極めて残酷で悪趣味な調理法とまじめに批判されたりもしているらしい。


人間は食べないと死ぬ。
植物の摂取だけではだめで、動物性タンパク質の何らかの方法での接種は欠かせない。周囲を海に囲まれた日本は風土的に魚食が発達した。内陸の地域ならそれぞれの風土で手に入りやすい食材が発達し、それらの手に入りやすい食材を、如何に食べやすくするか、という技法が発達した。
固いものは柔らかくし、アクの強いものはアク抜きをし、臭いものの臭いを取り、またハーブを使って別の匂いを付け、味の薄いものには味付けをした。
そうして、より食べやすくなった状態を「美味しい」と表現するに至った。言葉が違っても、その基準が違っても、世界各地に「美味しい」はあるし、美味しいを引き出すための工夫を重ね引き継ぐことが、文化でなくてなんなのかとすら思う。


たぶんそもそも、イルカや鯨を「食材として見るか見ないか」が、根源的な相違点なのだろうと思う。クジラ食に好意的な人ですら、イルカ食には否定的だったりするのは、やはり食材視する習慣の有無から来ていることは間違いないし。
が、しかしながらイルカは食材。食べ物。そのまま食べるものではなく、あれこれと工夫を凝らして美味しくすることができる、原石としての食い物。
日本では海から得られるものは、できる限り生、素材のままに近いもののほうがありがたいし良いものとされる。漁港育ちのうちの実家でもそうだった。
が、その中にあって、「手塩に掛けて手間暇掛けて」ということをすることで、ようやく美味しくなるという食材がある。
「今はもっと楽に美味しいものが手に入るのだから、そんな苦労をすることはない」
という批判があることも知っているが、食べ物っていうのはそういうものではない。
「近所に安くて美味しいラーメン屋がある。だからちょっと遠いところにあって手間暇の掛かるイタメシ屋のイタメシなど食わないでもいい」
ということはなく、イタメシはイタメシで違うおいしさがある。
ラーメンだって、食べる人間は手間暇掛からないかも知れないが作る側の手間暇は尋常じゃなく掛かる。
手間暇を惜しんで美味しくすることに執心した結果得られた下拵えの知恵や工夫を、残虐とか残酷と言った言葉で否定されたくない。


それが美味しいと分かったら、どんなに大変でも苦労があっても食べたいと思う。この点、ガストロノミストを気取るつもりはまったくないけど、そういう工夫を重ねてきた人達の蓄積を、食べずに否定するというのだけは避けるべきだと思うのだった。
僕は食べる文化圏にはないけど、その意味で犬食も猫食も虫食も否定はしない。鯨食文化だけでなく、日本人のイカ・タコの生食、フグ食文化だって、だいぶ奇異な目で見られているのは知っているし、肉にオレンジジュースやメープルシロップを掛ける技法は未だに不思議なものに思えたりもするけど批判したりましない。相違を認識して同化・平均化せず、相違を相違のままに受け入れるからこそ、選択の幅も広がる。
美味しいけれど、ただ一種類しか料理がない世界と、ハズレもあるけどいろいろな美味しい料理が選べる世界があるなら、ハズレのリスクを負ってでも可能性を選べる世界のほうがずっと幸せだ。


そういうわけなので、非難を浴びても今後もイルカを食べたいと思う。
「鯨やイルカは食べないから無関係」としてきたところでクロマグロで非難を浴びたことにショックを受けた人達は、鯨食やイルカ食が受けてきた批判と、クロマグロとの間にはさほど隔たりはないということを識っていただきたい感じ。