叱る話

昨日の日中、むらむらと寿司が食べたくなって近所の持ち帰り寿司屋に行った。
「今から握りますんで、20分ほど掛かりますけどいいですか」
盛り込みを頼んだので、ちょいと掛かるという。こういうときはちょっと色を付けてくれるので、「いいですよ」と返事し店先の縁台に腰を下ろして商店街の往来を眺めた。


ガシャーンと、派手な音が聞こえた。
小学校に上がる前くらいの少女の運転する自転車と、それと行き交おうとした爺さんの自転車が衝突したのだ。
爺さんも道に転げ、少女も投げ出されていたが、少女はヘルメットを被っていたのが幸いしたのか大した怪我もなく、すぐに立ち上がって泣きながら一緒に走っていた自分の父親の元に駆けていった。
父親の自転車の前カゴの辺りにももう少し幼い幼児が乗せられていたが、父親は慌てて自転車を降り、「大丈夫かい、怪我はないかい」と長女の様子を気遣った。
爺さんにも大きな怪我はなかったようで自分の自転車、少女の自転車を周囲の人々がそれぞれに起こしている。
爺さんは「危ねえだろ!」と激しい口調で怒って、いや、叱っていた。
親に向かってというよりは、自分と衝突した少女のほうに向けて叱っていた。
「こっちはアブねえと思うからゆっくり走ってたのに、こっちに向かってよろよろ突っ込んで来やがって! ちゃんと走れ! 周りをちゃんと見ろ!」
実際、2:8くらいで少女のほうに非があるのは確かだった。
父親も平謝りだったが、爺さんは父親に監督責任を問うて父親を叱るのではなくて、事故の当事者である少女に向けて「気をつけろ」と繰り返し叱った。


他人の子供を叱る。
しかも親の見ている前で、親のほうではなくて子供自身を当事者として、当事者である子供のほうを叱る。
どれほど小さい子供だろうが、しっかり叱る。
これって、なかなかできないことだと思う。
子供が親の付属品、従属物で近くに親がいるとなれば、
「どういう躾してんだ!」だったり「親は目を離すな!」だったり、そういう叱り方をしてしまいがちではないか。
子供に責任は問えないし、子供がしでかしたことはどうせ親が責任を取るのだし、子供に言ってもわかりはしないから親に言う――。
ついでに言えば、「子供は自分のしたことがわからないのだから、大人が一歩引いてやるべきだ」なんてのもある。
危ないことをしても、非があっても、「相手は子供だ、こちらは大人だ。子供は叱らず、その保護者を叱れ」という形で、我々は【他人の子供】に対して腫れ物に触るように扱いがちだが、この爺さんはそうはせずに、子供自身に対して叱った。
これって重要なことなのではないか。


子供向けの怖い話【怪異伝説ダレカラキイタ?】シリーズを書かせていただいて、現在作業中の巻で5巻目、3年目になる。
このシリーズでは通して「子供自身の恐怖センサーを磨く」「子供自身に警戒心を育てる」というコンセプトをバックボーンとしている。
怪ダレと今回の爺さんの叱る話と相通じるところは、子供を叱っていた爺さんが唯一親にも向けて言った一言。
「自分でちゃんとしてなきゃ、死んじまうぞ!」

親には確かに子供を見守り、周囲の大人達にも子供を見守る義務はあろう。
しかし、24時間365日子供を完全監視することは不可能だ。
自分達の子供時代を思い返せば、できる限り親や先生、大人達の目をかいくぐることばかり考えていたはずで、それは時代を超えても変わらない。
「親が見てないところ、親の行き届かないところで、子供は勝手に危ない目に遭う」
わけで、子供達がしていることが命にも関わる危ないことだということを、当の子供達自身は大人に守られすぎで理解できていないのではないか、と思えることがある。
車道に飛びだせば死ねるし、ホームで人に突き飛ばされれば死ねる。
そういう被害に遭わないように気をつけましょう、という教育は口酸っぱく為されているのだろうが、大人に守られすぎな子供達はそれに実感を感じられない。
だが、もっと重要なのはそこからもう一歩進んだところにある。
「飛びだせば死んでしまう」「突き飛ばされれば死んでしまう」
前者は不注意への警告、後者は第三者の悪意に対する警戒心、しかしいずれもブレーキが間に合わなかったドライバーや電車、悪意ある加害者に責任があり、自分が可哀想な被害者になることを前提とした警告だと言える。
被害に遭う側が注意するだけでなく、被害に遭わせる側、加害者側にならないようにする注意喚起が本当は必要なはずだ。
公教育に限らないけど「子供はイノセンス」「子供は自分のしたことがわかってないから仕方がない」だから「保護者の監督責任のみを問い、子供に罪を問わない」という感じで、「うちの子に限ってそんなことはしない」という前提に立ちすぎているのではないのか。

叱るというのは、「うちの子を被害者にしないための警告」ではなくて、「うちの子(他人の子)を【加害者】にしないための警告」ではないのかな、という。
僕が見かけた先の自転車事故では、どちらにも怪我がなかったからいいようなものの、実は少女が加害者になった可能性は非常に高かった。
少女はヘルメットを被っていたが、一般的日常的に自転車に乗る大人は、輪行を趣味にする人でない限りヘルメットは被らない。「そんなのヘルメットを被らない大人が悪い」という意見もあろうが、現状ではヘルメット着用義務は自転車にはない以上、そこは非を問う論点にはならない。
また、爺さんが倒れ込んだ側は、あと少しずれていたら沿道の商店のワゴンや保冷ケースなどに突っ込んでいた可能性が高かった。
少女の側が、爺さんに対する加害者になる可能性があったのだ。
「大人がいつも見守ってくれるとは限らない。親がいつも寸でのところで助けてくれるとは限らない。自分で気をつけていなきゃ、自分が死んでしまう。また、誰かを死なせてしまい、その責任を当事者として問われ続けることにもなる」
幸い誰もそういう目に遭わずに済んだものの、爺さんが父親ではなく少女自身を叱ったことには、そういった二重の警告が含まれていた。
父親にそれを言い父親に叱らせるのではなく、爺さん自身が赤の他人として、しかし幼い少女を当事者として直接叱る、というのはなかなか大切な、そしてなかなかできない英断だったと思う。
よく叱った。


他人の子供を迂闊に叱ると、逆にとばっちりを食ったりする世の中だ。見て見ぬ振りをするのが得策だったりするのかもしれない。
でも、「駄目なことは駄目」と叱ることって大切だ。
ちゃんとしないとお母さんに叱られるよ、お父さんが怒るよ、あのおじちゃんが怒るからちゃんとしなさい――それじゃ駄目だ。
【誰かの機嫌を損ねるからやっちゃいけない】という叱り方ではなく、その子自身にとって将来的に不利益になり、その子が他人に対する加害者になってしまう恐れがあるからこそ、そうなるな、と叱るのでなければ駄目だ。
その意味で、爺さんはよく叱った。
父親のほうではなくて、躊躇なく子供のほうを叱り飛ばしたことに快哉を送りたい。
咄嗟にちゃんと叱れる、咄嗟に声が出る、そういう爺さんになりたいもんだ、と思った。


自分の自転車に下の子を残して父親が爺さんのところに謝りにいったとき、実は僕は鮨屋の縁台から立ち上がって、すぐにでも飛び出せるように身構えていた。
スタンドを立てた自転車は何とも不安定で、カゴに乗った子供がぐずるとゆらゆらと揺れる。父親は足が少し不自由なようで、引きずるように歩く。
父親が自分の自転車から離れて長女と爺さんのほうに歩み寄ったとき、もし父親の自転車が倒れたら、たぶん彼は咄嗟に飛びつくことは難しい。
危ない、倒れるかも、危ない。
むしろ、二次災害の発生をはらはらしながら見ていた。
幸い、長女に怪我はなく、爺さんも大した怪我はなく、補償問題やら弁償やらで話が長引くようなこともなく、その間、往来に車通りはなく――。いろいろ幸運が重なって、カゴの幼児が地面に放り出されることもなく済んだ。


ほどなく長女は泣き止み、父親に無事を慰められつつ去っていった。
爺さんは「とにかく怪我はなくてよかった。ちゃんとしろよ!」と去っていった。
よかったよかった。


と、そこにちょうど寿司ができあがってきた。
「はいよ、お待ち」
僕は寿司をぶら下げて帰途に就いた。