編集者という幸せな生き物

モノを書く、描く、作る人間は、多かれ少なかれ功を誇りたい気持ちというものから逃れられない。
評価を得たい、褒められたい、そういう気持ち、もっと根源に近いところでは「自分の正しさ、成果を誰かに理解されたい」もっと踏み込むなら「自分を肯定されたい」。
だから、自分の成果、考えに対する批判、或いは自分自身までもに踏み込んで否定されることを厭うし、辛く思う。
とはいえ、自分とまったく同じ人間はこの世にはいないわけで、99%近い考えの人間とすら常に完璧に同じ結論や展望を共有することはできない。ましてや、自分の正しさを肯定されたがっている者同士が、互いを肯定しあえることは奇跡に近い。
僕自身、その昔は絵を描いていた。しかし早い段階で自分よりもっと凄い描き手と出会うことができたので、あるのかないのかわからない可能性に縋っていくことを早い段階で見切り、健やかに筆を折ることができた。
また僕自身、今も文は書いている。もっと凄い書き手がいることはよく知っているし、自分の書き手としての限界みたいなものも薄ぼんやりとわかっているので、より凄い、より高い位置にいる書き手や、そこに行くであろう書き手を、同業者として羨むというような気持ちはこの数年特に弱まってきた。というより、上は目指さなくていいのだ、上を目指すために書いているのではないのだ、という心持ちになってきたことが強い。
そして僕は編集者という生き物だ。
功成し名を挙げたいなら、編集者であることに早々に見切りを付け、自分個人の名を挙げることに注力すべきだろうし、周囲の著者はそうした道をひた走っている。それは正しい。
だが僕は編集者という生き物で。
芽が出る前の人、
芽が出つつある人、
どこへ向かうべきかを決めつつある人。
そういう人を見るのが好きなのだと思う。
かつて、こういう例えを書いたことがある。さぼり記のどこかに書いてあるかもしれないけど、漁るのが面倒だからもう一度書く。
作家、イラストレーター、漫画家というのは宇宙飛行士で、自ら作った作品というロケットに乗って飛び立つ。
成層圏を越え第一宇宙速度を超え、衛星や惑星や深宇宙の彼方まで飛んでいく人もいる。
軌道に乗れずに彷徨う人、発射直後に空中爆発する人、発射台の上で爆発する人、発射台に載せる前に倒れる人もいる。
無事、軌道に乗り、深宇宙へのコースに乗ることができれば、宇宙飛行士は称賛を浴びる。自ら作ったロケットの正しさが彼の地位を与えるのだから、その称賛は全て彼らのものだ。それは当然である。
編集者という仕事は、その作家という宇宙飛行士を乗せたロケット打ち上げ事業の中にあっては、地上管制官、打ち上げ司令官、アーキテクト、そういう立場であると言える。
計画を立て、その計画通りに事が運ぶように調整をし、もっと言えば良いロケットを造り、乗りこなせる宇宙飛行士を見つけ、育てる。
打ち上げが成功すれば全ての栄誉はロケットとそれを造り乗りこなした宇宙飛行士自身のものになり、幾多の地上管制官が顧みられることはない。
初めて宇宙に行った人間はユーリ・ガガーリンだ。しかし、ガガーリンを打ち上げた管制官の名前を知っている者はたぶん皆無だ。
初めて月に足跡を残した人間はニール・アームストロングだ。しかし、彼を打ち上げた管制官の名前を問われてすぐに答えられる人間は少ない。
編集者は、管制官という人々は、本当は自分自身がその高見に行きたかった人だったり、その高見に到達できる選ばれた人々を、ごく間近で見続ける生き物だ。
高見に上る人々の成功は眩しく、そこに辿り着けずにドロップアウトしていく人々の背中を見送るのは辛い。
そして、どれほど成功を共感できても、その栄光は管制官を照らさない。
ひとつの打ち上げを終えたら、また次の打ち上げのために最初のフェーズに戻る。
才能の眩しい煌めきに眼を細め、高見を上り詰めていく飛行士を羨みつつも、また次の飛行士を打ち上げる計画に、身を投じる。それを辞めることができない。
それが編集者という生き物なわけで。


名刺には書いてないけど、おまえの仕事はなんだ? と問われたら、「カタパルター」とか言いたい。
踏み台として、できるだけ高く、落ちてこないほど高く、そして打ち上げの苦労を思い出せないくらい遠く、次々に誰かを打ち上げる。
そういう編集者でありたい。
一生それをできたら、そんな幸せなことはない。


年々成長を続ける人々の最新のゲラを読めたり、
今正に芽吹く人の芽吹く瞬間に接したり、
芽吹くかどうかすら怪しい有象無象の活気を浴したり、
たぶん今、僕は幸せなんだろうなと思う。
誰に言ったらいいのかわからないけどお礼を言おう。
ありがとうございます。




しんどいのに多幸感に包まれる。なんでだ。
佳境が近付くたびに、毎月出てくるこの感覚。