議論の意味と意義

ネットの世界には議論が飛び交っていて、いつも自分の主張を通したい人がいっぱいいる。
これは、Twitterやネットに限らない。
大は国際政治から、小は砂場の取り合いに至るまで、日夜議論は繰り広げられている。
人間にクチがある限り、議論がやむことはないし、自分が議論を望まなくても議論を挑まれることは多々ある。少し前ならブログや掲示板。最近ならTwitterTwitterの議論などでは、互いの肩書きやポジションを明かした上で「この自分が言うのだから正しい」「詳しくは本を読め」というスタイルの論難者も多かったりするのだが、それは演説もしくは著書の宣伝であって議論というようなものでもない。


さて、なぜ議論が起こるのか、誰が議論に【勝ちたい】のかを、ちょっと考えてみた。

議論とは?

そもそもなぜ人は議論をするのか?
を考えるために、議論をしなくてもいい状況を考えてみた。

  1. 議論するまでもなく趨勢の意見が一致している場合(「引退の撤回は撤回すべき」とか)
  2. 対立する勢力の一方が、議論のテーブルに付く気がないとき(しなくてもいいのではなく、議論をしたいができない状態)
  3. 対立する勢力の一方が、議論以外の手段に訴えてでも意志を通そうとしていて、もう一方の勢力は議論以外の手段に訴えることができないか、議論以外の手段では確実に負ける場合(クラウゼヴィッツ戦争論で言われるところの、「戦争とは政治的意志の遂行手段である」の下りが当てはまる)

まあ、ぶん殴ってでも意志を通すつもりの勢力と、そこまでやるほどではない(争点の優先順位が高くない)勢力がぶつかれば、議論などするまでもなくぶん殴ってでも、という意志を固めている側の意見が通る。議論は成立しない。
では、「ぶん殴ってでも」という意志強制手段が封印されている状況下であれば、「議論」は意志決定のための代替手段になり得る。

民主主義的な意志決定というのは、集団の中にあって「多数派の意見を採用する」というものだ。これは、少数派の意見表明の機会を保証するが、少数派の意見は多数(公衆の利益)の優先の前に採用されない。このあたりは中学高校あたりでやってるはず。
なので、最終的な決議を取る前段階に「議論」という機会が用意されている。
多くの場合形骸化しているけれども、国会などでは本採決・委員会採決の前には議論が尽くされる。この議論は与党/政権側=多数派にあっては「公衆の利益の正しさ、提案の正当性の説明」に費やされ、野党/反対派=少数派にあっては「多数の利益の優先が本当に正しいかどうかの指摘と検証、少数の利益の救済」に当てられる。
特に委員会などでの議論はテレビが入ったり、朝生的な入り乱れての論戦にはなりにくいこともあって、英雄的な論調での指弾合戦になり、テレビ写りのいい滑舌のいい、決めぜりふ的なスローガンをここぞというところで打ち込むようなスタンドプレーヤーが目立つことになるのだが、このへんは一度横へ置く。

もし、与党多数派が野党少数派の意見を一切汲む気がなく、野党は少数であるということを以て発言権がないのであれば、議会は開かれる意義を失う。
少数派に発言の機会が用意される=議論の機会が保証されるのは、「多数派の意見を少数はに転じさせることで、多数派を構成する勢力を逆転させるため」に他ならない。

小規模な議論の意味

国会の話は置くとして、Twitterなどではあちこちで1対1の小規模な議論が繰り広げられている。
これは何のために行われているのか。

別に議決権があるわけではないし、党首討論をやってるわけでもないので、ぶっちゃけていってしまうと、それらの議論はしなくてもいい議論と言えなくもない。身も蓋もない話だけど。
だけどあちこちで今日も議論の火ぶたが落ちまくり。

ではこの小規模な議論はなぜ行われ、どういう主旨で何を落としどころとして行われているのか。議長もなく、持ち時間もないわけだから、小規模な議論の多くは水掛け論になったりで不毛極まりないのだが、双方が学生だろうが素人さんだろうが研究者同士だろうが、研究者と門外漢だろうが、しばしば議論は起こる。

ここで、それらの個人が議論をしなければならない理由を考えてみる。
議論の基本は、「多数派と少数派の意見対立の中にあって、少数派が多数派に転じるために行われる」ものと考えてよい。
相手を論破するとか自説に平伏させるというのは、実はごく小規模な議論にあっても勝利条件ではない。

先に議論に絶対に勝つ方法から述べておくと、議論しない/取り合わない/無視するというのは、議論の必勝法と言える。そもそも闘わないのだから負けることはない。日本人の多くは無意識のうちにこの選択をしている。
「言わせとけ言わせとけ」「誰も相手にしないさ」
という意識から来るものだが、自分が圧倒的多数の構成員で、議論を仕掛けてくる側が少数派であるなら、相手にしないことによって多数派は勝利する。
少数派が議論を行う理由は、「少数派の意見を広めること」ではなくて「少数派の意見に賛同する者を増やし、勢力を拡大して多数派に転じること」にある。つまり、多数派が議論のテーブルに付かなければ、少数派のシンパは増えないわけだから少数派は「シンパを増やして多数派に転じる」という目的を達成することができない。

つまり、多数派に属している人間は、別に議論しなくても困らないのである。

例えばある議題について、幾つかの意見があるとする。

  1. 積極的に賛成
  2. 消極的に賛成
  3. 現状維持で依存なし
  4. 現状に不満がある
  5. 現状を変えたいと思っている

この場合賛成派は(1)〜(3)で、反対派は(4)〜(5)。
何もしなければ現状は(1)〜(3)の多数派の意志により変わらない。
つまり現状に対して何らかの反意を示す反対派は、(1)〜(3)の意志を変えることで、自分達(4)(5)が多数派になるようにしなければならない。

ここで、(1)〜(3)は、実を言うと別に議論をしなくてもいい。しなければしないで現状は変わらないのだから、現時点に満足している限り問題は起きない。
つまり議論をする理由があるのは(4)(5)となる。(4)は不満はあるが行動は取らない、賛成側勢力にあっては(2)のカウンターパート。
で、反対側勢力の先鋒として多数派工作=議論を行い、勝たなければならないのは(5)ということになる。


先の都条例の件や、その昔の学生運動時代の議論などを見ていると、(5)は(1)を罵倒したり、(2)(3)の不明をなじる、という形のアジテーションを取ることが多い。
先の都条例の件で言えば、条例改正案反対派は石原都知事や猪瀬副知事を罵倒することで、(2)(3)を仲間に引き入れようとしたが、これはうまくいっているようには見えない。学生運動では(5)は政府首脳などへの批判に加えて自分達に協力しない(3)を批判する*1ことで、味方に引き入れようとした。

このスタイルの「議論の相手をなじることで、自分の正当性を主張する」というスタイルの論者は割と珍しくない。これは先の都条例を持ち出すまでもなく、民主党の議員や今の首相や官房長官が、最も得意としてきたスタイルだ。相手を徹底批判、徹底的に否定することで、批判されない・否定されない自分は正しいのだ、とすり込むものでもある。
学生運動市民運動における「総括」とか「弾劾」的なものはこれを取り囲んでやられるそうですよ(´Д`)コワー

これは、議論に参加しないオーディエンスは確実に自分の味方であり、自分はオーディエンスの代表者としてオーディエンス全体の敵を打擲するものである、という意識の上に立っている。
「奴らは敵だ。敵は悪だ。悪は殺してよい」
という正義感に支えられている者は、目的のために手段を選ばない。手段の非道さは目的のために正当化される。ナチスドイツもそうであったし、十字軍もそうであった。それに限らず世の中のおよそ「批判を受ける勢力の物事の進め方」というのはこれに類する。
けれども、彼らに力を与えているオーディエンスが本当に多数派であるなら、議論にあって相手を罵倒する英雄というのは正義の鉄槌を振り下ろす神罰の代行者になるので、どんな罵倒も許される。つまり、この罵倒式の議論スタイルが意味と効果を持つのは、発言者が多数派に属している場合に限られる。


と、ここで話を戻すと、議論をしなければならない。そして勝たなければならない。さらに言えばシンパを増やして多数派を形成しなければならないのはどちらだったでしょう?
そう。
多数派ではなくて、それをして味方を増やさなければならないのは少数に属している自覚があり、多数派形成ができていない側だ。
つまり、多数のオーディエンスが自分の味方という前提で、相手を討ち滅ぼす英雄的論法というのは、少数派が多数派を形成するためのスタイルではあり得ない。

少数派が、動かないサイレントマジョリティを動かし、味方に付けるためにしなければならないのは何か?
敵失をオーディエンスにさらけ出すための徹底的な攻撃?
もちろん、結果的に議論を注視しているオーディエンスを自分の味方に付ける、という目的が果たされるのであれば、それはそれでひとつの戦術として有効かもしれない。
が、単に「無知をなじる」「門外漢の情報不足をなじる」「自分の専門性を誇示する」というだけでけでは、オーディエンスは味方にはできない。この辺り、今年の例で記憶に残るのは、ひろゆきとカツマー(西村博之勝間和代)の対談。カツマーはひろゆきの反論、指摘に対して、自分の専門性を誇示する、相手の無知をなじる、単純な論難に終始してしまい、「自分の理論の味方を増やす」という点を疎かにした。その結果、オーディエンスはカツマーに拒否反応を示した。議論は勝敗を付けるものではないが、その目的が「自分の意見の賛同者を増やす」というものであると考えた場合、カツマーはひろゆきに全面敗北したわけだ。

このときのカツマーの勝利条件は、ひろゆきをやり込めることではなくて、

  • ひろゆきから自説への賛同・賛成を引き出すこと
  • ひろゆきの口から自説を肯定的に説明させること

であったと思う。そのどれも達成できなかったし、またひろゆきの指摘にも答えられなかったということで、これはカツマーの散々な負けだったなあ、と1オーディエンスとしてそういう感想を持った。


話を戻すと、小規模な議論の目的は「相手を打ち負かす、論破する」ということではなくて、相手とそれを取り巻くオーディエンスから、自分への賛同者を引き出すことではないかな、と思う。
多数派は議論などする必要はなく、少数派だからこそ自説への賛同を増やさなければならない。
そして現状維持の多数派は多くは多忙か物臭だ。いちいち、親切に膝をつき合わせてくれることは少ない。そこへ持ってきて「おまえはダメな奴だ」と言われようものなら、話を聞く気もなくすし、「どちらでもかまわない」というもしかしたら味方に転ぶかもしれなかった人間を、わざわざ「積極的な敵」にしてしまいかねない。
これは議論が会議になっても同様だと思うのだが、「最終的に議決を取るまでの間に、自分の説に賛同する人間を如何に増やすか」が議論の目的だ。


もっと言えば、「自分がいない場所で、自分の主張を限りなく正確にトレースできる二次的な論者」言うなれば、自説を積極的かつ肯定的に代弁できるクローン=シンパを、如何に多く獲得出来るかが、議論の価値だろうと思う。
黙って聞いていたオーディエンスは、論者が議論の休憩に入った途端にそれぞれの自説を語り始める。このとき、オーディエンスの大半が自説の反対者になっているとしたら、この議論は失敗している。少数派にとっての議論は、勢力拡大にある。味方も、シンパも増やせない議論は意味をなさない。「論破」は論者の自己満足にしかならない。
あくまで、「味方を増やし、自分の説を多数派にする」のが議論の目的であるわけであるからして。


で。
この「シンパ獲得のための議論」というのがしゃべり慣れない一般人、口べたな学生さんにできないのは仕方がないと言えよう。それこそどんな分野であれ、人を口説く/プレゼンテーションというのは重要なスキルじゃないかなとは思うのだが、およそ多くの人はそれを専門的にやっているわけでもできてるわけでもないし。
が、政治家とか、経営者とか、研究者とか、批評家とか、そうしたどちらかというとプレゼンテーションによって多数派の賛同を勝ち取らなければ立場的にも立ちゆかないはずの人々が、案外この「シンパを獲得するための議論」というのができていなかったりすることに驚く。
自分の説やスジを発表はするが、説得はしない作家やそれに類する業種の人は、ある意味仕方ないかもしれない。人の話を聞かないのが仕事、と言ったら怒られそうだがw、自分の世界を予め待っている人に向けて発表するというのと、反論や批判を宥めて味方に付けるというのは、必要とされるスキルが異なるのだと思う。
政治家は議論のスペシャリストであるはずで、意見調整や仲裁、主義主張を説明し代弁しということができて当たり前のように思われがちだが、政治家になる直前まではコンサルでした、医者でした、ワンマン企業の社長でした、なんて人も珍しくはないわけで、誰もが必ずそうした議論のスペシャリストではないらしい。
人の話を聞かない(自分の成功体験が拠り所の)系の経営者はそもそも自分の意志を曲げるつもりがないし、同じように専門知識が拠り所の研究者の中には「まさか素人に口答えされるなんて」という意識があるからなのか、講義をするような調子で話はできても「目の前の相手及びオーディエンスを味方に付ける」という口説き方はなかなかできないものらしい。批評家の類は(以下略*2

結論:議論をする意味しない意味

そんなわけで、ネットの議論は自分が当事者になるのもハタで見ているのも、面白い。Funnyという意味でもinterestingという意味でも。
Twitterなどでは、本当に見ず知らずの人といきなり議論になることがしばしばある。
自分がなんとなく書いた一文が知らず知らずのうちにRTされ、それに食いついてくる人賛意を送ってくれる人など様々。望んでいない議論に巻き込まれることもある。「そこをもう少し詳しく」と食い下がって、いろいろ世界を啓いてもらえる議論もあれば、そうではないこともある。
ともあれ。
自分が安定的多数派に属しているという自覚と確信があるなら、議論などせんでよいと思う。「そうだね」「そうだよね」(*´・ω・)(・ω・`*)ネーと言ってるのが一番平和でよい。
自分が少数派か、自分が責め立てられて存続が危ういとき、議論をせざるを得なくなったとき。
そういうときは、

  • オーディエンスを味方に付ける
  • 自分がいなくなったときに、代わりに意見を言ってくれる人を増やす
  • 相手を論破するのではなく、相手を自分の味方に付ける
  • なるべく悪口を言わない

を心がけたほうがいいような気がする。

最後の「悪口を言わない」は、面と向かっても陰でも。
ネットには完全な密室はなく、感想も主張も意見も陰口も必ず漏れ伝わる。
メールに書いた内容が零れていくことだってあり得る。
ましてやmixiTwitterは密室ではない。
小泉元総理のモットーは「人の悪口/陰口は言わない」だったそうな。皮肉*3は相手に通じなければ効果がないが、通じやすくするために平易な罵倒を使う必要はない、というか。




専守防衛を守っていれば、誰からも戦争を仕掛けられることはない」
という九条教という宗教が日本にはあるのだが、こちらにそんなつもりがなくても「多数派へ転じることを狙っている人々」に議論を仕掛けられることは多々ある。環境論、表現の自由、年金・保険、フェミニズム/ジェンダー論、まるで心当たりのない派閥抗争のあれこれに巻き込まれることだってある。
とかくこのNETは貰い事故。
平和に暮らしたいもんだなー、とこの一年の議論話を振り返って、そう思うのだった。


はー、他山の石他山の石。

*1:ノンポリ、と呼ばれた

*2:目を付けられると大変でw、豊富な語彙で罵倒されまくるw でも、罵倒というラベリングで対話を遮断してしまうのは、議論の在り方としてはあまり褒められない。一方、議論をしない、無視するいうことは「闘わない限り負けることもない」理論的には賢いと言える。

*3:皮肉=アイロニーとは、言われた側が図星に感じる心に痛い真実であって、陰口ではないのだそうw