江古田落語怪

今日の段階で「どの話を出すか?」というのは、未だ僕にも伏せられている。
常連のいる定例会など違って、初演となる落語会では「予め幾つかのネタを仕込んでおくが、当日の客の雰囲気を枕で探りながらいけそうな噺をその場で選ぶ」ため、なのだそうで。そのため、古典も新作も何が出てくるか当日までわからない。
これは大変スリリングである。
また、新作については原典となる怪談を過去の加藤怪談から選んでいる。特に評判の良かったもの、または僕が好きな話などから、「高座で聴いてみたいもの」をピックアップしているが、ものによっては「長い話」と「一瞬で終わる話」とがある。このため、いくつかのお話を繋いでみたり、または落語ならではのアレンジを施していただくものもある、かもしれない。


歌舞伎やオペラなどの劇では、予め物語やオチは観客に知らされている。
パンフレットにストーリーの概略が書かれているし、何度となく上演されるため初演観劇者だけでなく、再演、再々演を観劇する人も少なからずいる。
が、実話怪談は「オチが命」で、最後の瞬間までオチがわからないように伏せることに注力されている。実話怪談に限らないが、怪談の多くは「初見勝負」なところがあって、オチが知られている話をもう一度読んでもらえる可能性は決して高くないのである。

文学的完成度が高く再演が繰り返されている過去の怪談と言えば、その多くは江戸時代に創出されたものと思われる。下って泉鏡花、もっと下って京極夏彦氏などがその系譜に連なるのだと思うのだが、泉鏡花京極夏彦氏も「創作怪談」であって、「実話怪談」でその「再演・再読に耐える傑作」に昇華したものは、実はあまり数がないように思われる。(「四谷怪談」は鶴屋南北の創作とされるが、原典となった事件は存在したという説もある。これを「実話怪談」に数えてよいものかどうかは、いつか機会があれば小池壮彦氏のご意見を伺ってみたいところだ)

原作付き怪談を映画やその他のメディアにリメイクする場合、観客の多くは(全てではないが)原作をすでに知っている。このため、オチとは違う部分(視覚的恐怖)で恐怖のオリジナリティを作ったり、原作と違うオチを売り物にしたりするのではないかと思う。これも原作を得てリメイクを担当される方なりの工夫だろう。
が、「オチ」のみが注視されがちな実話怪談は、この点がかなりシビアに評価されるのかもしれない。これに、以前触れた「男性は恐怖を理解しようとし、女性は理解できないことに恐怖する」という法則が降りかかる。
リメイクを担当される方にとって「恐怖」「実話怪談」というのは、甚だ厄介な素材であるのかもしれない。

江古田落語怪当日は、第一部「落語」の後に第二部「飲み会」が設定されている。
この場で噺家さんを交えた飲みになだれ込んでいくことになるのだが、「怪談から噺へ」のリファインについての苦心譚なども伺ってみたい。さらには、当日は先だって僕がご招待頂いたホラー映画「死づえ」で劇場映画監督デビューを果たされた諸江監督もお見えになるということなので、「文字で読む実話怪談の恐怖」「視覚的恐怖」「噺で演じる恐怖」の相関についてご意見を伺う楽しみもある。


葬祭場の隣、実話怪談、落語。
11/25まであと三日、と迫った江古田落語怪。
たいへん楽しみである。



参加枠はあと1名。