必然

原稿を書き、調べ物をし、プロットを書き、ネタ整理をし、また原稿を書き、その合間に予定より大幅に遅れている超-1の仕込み(募集のためのインフラ整備)をぽちぽちと行う。
郵送とメールで送られる人の他、おそらく大多数は公式サイトからの応募になるだろうことが予測される。
それが100%ではないにせよ、これからのモノカキがネットと無関係では居られないことは、もはや疑う余地はない。
ほんの数年前までは、40代くらいのそれなりに熟練ベテランの作家さんでも「僕はパソコンは苦手でねぇ」と仰る方は決して珍しくなかったし、今だってそうした方は決して0%ではない。
が、今後出てくる作家の多くは「手段としてのアナログ」は、個人的なファッション以外では通用しなくなるんだろうなあ、と薄々思っている。
僕の場合はと言えば、出版とコンピュータの距離が急速に接近し始める草創期に、「先進的な編集方法のひとつ」としてPCを使った執筆/編集に触れていたこともあって、世の中の同業者の中では比較的早い段階でネットワークと融合したモノカキの先頭集団のほうにはいられたのではないかと思う。
最近は、原稿をメールで送ることは珍しくなくなったが、ゲラをPDFでくれるのが当たり前というところにまでは、まだまだ全域としてはなっていないようで、老舗で大所帯の編集部ほどそういう体制への移行に手間取っているようにも見える。
逆に大量のデータをシステマチックに扱うような編集部は、大所帯であるが故のスピードアップの必然からか、そうしたネットワーク化、コンピュータとの融合が進んでいる、とも言える。
もちろん、まだまだ進化の余地はあるのだろうけれども。


こうした動きは簡単に言ってしまえば「時代の必然」が作り出した流れである。
もっと言えば、「効率化(低コスト化の追求)」と「インフラの充実(ネットワークの発展)」と「クライアント(としての端末機器。要するにパソコン)の充実と高度化」が揃ってきたが故に猫も杓子もそれを活用するようになっている。
タダでもらえるなら誰だって惑星プロメシュームに行きたがるものなのである。
そんなわけで、モノカキがネットと融合し、パソコンを使った原稿執筆に向かうのは時代の必然であることだなあ、という話。


一方で、パソコンもネットもそれらはツールに過ぎない。
ツールが高性能・高度化することと、ツールを使って何ができるかということとは、常に一致しているわけではない。
F40を持っていてもドライバーがヘボであれば、エンツォの赤い車はガードレールを簡単に突き破る。
ツールを使って「何をするか」が問われる、ということなのだと思う。
ありきたりな話だが。


で、超-1。
もちろんこれは「実話怪談を書いて送って下さい」という企画であるわけで、送られてきた怪談の出来をよってたかって評価して、「いい怪談を書いた人を選ぼう」という、至極オーソドックスな企画である。
とりたてて珍しいものではないし、同種同目的同意義の企画は以前からあり今も今後も開かれるだろう。
怪談というのは(怪談に限らないけど)読者の好みに大きく左右されるところが大きく、同じ怪談を書いても評価はまちまちであったりする。
その意味で、今、どんな怪談が求められていて高く評価されるのかというのは、そのときどきの読者がそれぞれの好みとして決めていっていい問題であるように思う。高いところから「これが怪談であるッ! わしは江田島平八であるッ!」と決めてかからなくても別にかまわない。
それこそ、読者というのは読む方のプロ。
年間に目を通している類書の数で言ったら、著者を遙かに上回る人など珍しくないかもしれない。そうしたプロの読者wの審美眼、審恐眼というものは、大いに信頼していいと思っている。


では、僕個人は超-1を通じて何を求めたいか、何を知りたいのかというと、
「あなたはなぜ怪談を書くのですか? なぜ怪談でなければならないのですか?」
ということ。
少々哲学的にも聞こえるこの問いは、せんだっての恒例イベントで僕が質問させていただいた「あなたはなぜ実話怪談が好きなのですか?」という問いと、通じるところもあるかもしれない。
そして、このことが今大会で最大のポイントになるんじゃないかとも思う。
なぜなら、この問いには「正解」というものがない。
「こうでなければいけない」という理想とする解答例というものもない。
ただただ、「何を必然として怪談を書かなければならないのか?」という、それだけの問い。
例えばこの問いを「超」怖い話の相方であり現在の編著者である夢明さんにしたら。具体的にどんな答えが返ってくるかについては僕にはわからないけれども、たぶん僕とは違う回答になるだろうことは、これまでの10数年の蓄積から想像が付く。
同様に、樋口さんにしても、上原さんにしても、木原氏&中山氏など新耳のお二方や小池氏、稲川氏にしても、やっぱり違った回答が出てくるんじゃないだろうか。
そして、重要なのは「何故怪談でなければならないのか?」という問いに対して、自分なりの答えまたは、自分にとってはそれが当然であるという回答を、示せるかどうか? ということそのものにある。
たぶん、模範解答(笑)として想像されるのは、

  • 怪談が好きだから
  • 怪談を書きたいから
  • 話を聞いたから
  • 聞いた話を残していきたいから

などなど……といったところだろうと思う。
別にこの解答でなければいけないとか、ここに挙げた回答だったら失格とかそういうことではないので心配はしないでいただきたい。


自著に対して、「それはよい著作である」「あなたはよい著者である」という評価を下すのは、恐らく著者当人ではない。多数の読者の選択であり、それは「部数」「売り上げ」という実数にいずれ変換され、版元からのお中元/お歳暮のレベルwに反映されて示される。
が、「どんな著者でありたいか(これは、どんな著作を書きたいかとは、イコールではないのかもしれない)」ということは、自ら見つけていかなければならない。
恋で始まり愛で結婚すると言うが、結婚はゴールではなくなお続く長い道のりである。長い道のりを一緒に歩き続けるためには恋や愛とは違う必然が必要だったりする。
モノカキも同様で、好きだからというのはきっかけとしてはいいかもしれないけど、モノカキであり続けるためには自分がそうと決めた「何か」が必要なのかもしれない。
これは伝授できるような性質のものじゃないし、正解に相当するものは人によって違う。
「よい著作を求める」のではなく「著者たる覚悟のある人を求める」という超-1での僕の望みは、そこいらへんだと思っていただきたい。


ともあれ、「なぜ怪談を書くのか?」「なぜ怪談でなければいけないのか?」というものに対して確固たる答えを見つけられた人が、超-1チャンピオンの座に近いのではないかなぁ、と薄ぼんやり思うのであった。