世界を動かす話

カテゴリに[怪談]と入るとき、なんとなーく怪談の読者、または超-1参加者の方が読むことを念頭に置いて書いている。という話はさておき。

先頃上梓した最新刊「弩」怖い話3は、おそらくは「弩2路線」を期待された方にはおよそ評判は芳しくないかもしれない。まあ、それは想像付く(^^;)
で、本編でも触れたように「日頃、怪談を読まない人々を、実話怪談ワールドに引っ張り込む」というのは、実は「弩」怖い話シリーズ全体が意識して挑戦している課題でもある。
1、2が小説めいた形態を取っていたのは「創作怪談を読み慣れた人を実話怪談に連れてこれないかなあ」という狙いから。内容は実話だけど、文体が実話風だと抵抗を感じる人向け、という。いわば、「中身は実話だが入れ物が違う」というのが前2作。
弩3は同じホラー/怪談趣味の別カテゴリの人をターゲットにしているわけではなくて、「怪談を手に取るのが気恥ずかしい、怖い話を口の端に載せることに抵抗がある」というおじさんたちをターゲットにしたもの。
つまりは、純粋実話怪談主義者という本来狙うべき層から僅かにポイントをずらしている。
ので、当然ながら純粋実話怪談主義者の反応は100%よいということはありえず、むしろ厳しい評が付くことが予想される。てか、その通りになっている模様(´・ω・`)


では、当初の狙いはどうだったのかというと、版元社内の「オヤジ」には【バカウケ】なのだと知らされている。市場での売れ行きも悪くないというか、むしろ好調だとか。実話怪談の市場が大きくなるということは、それだけ類書が増えるということでもある。全体の点数が増えても、それを買う市場構成者数が変わらなければパイの取り分はどうしても小さくなる。そうなったら、やはり「純度を高めていいものを作り、限定されたパイの取り分を増やす」ということ以外に、「パイが好きじゃない人が、パイ好きになるようなトッピング・味付けを考えて、市場の拡大を狙う」ということも考えていく必要が出てくると思う。
弩3は端的に言えば「オヤジ向けシモネタ怪談」と評されてしまうかもしれないが、それによってこれまで実話怪談に目もくれなかったオヤジ層を、こちらのフィールドに少しでも取り込むことが出来れば、それだけ実話怪談の延命、市場の拡大(供給飽和の緩和)に役立てると思う。
純度の高い怪談を求めるフリークが増えるのはそれはそれでいいことかもしれない。が、それが排他性を持って、少人数にしか受け入れられないようなものになっていってしまうと、市場は死んでしまう。そうなれば、実話怪談を発表する(商品として世に出す)という機会も失われてしまう。
それはなんとしても回避しなければならない。

「超」怖い話を何が何でも延命させたいと思うのは、商売の観点の話だけではない。
今後、実話怪談及びホラー市場が、「純度が高まりすぎることによって死滅していく」ときに、「超」怖い話という怪談発表の場がなくなってしまうことを僕は恐れている。出してさえいければ、怪談は発表できる。売れなければ出していけない。売れるためには実話怪談を読む人の人数を増やさなければならない。増やすためには、「今、実話怪談を読んでいない人を外から連れてくる工夫はしなければならない」。
そのための実験もしくはアンサーが「弩」怖い話という実話怪談の実験室なのだと思っている。

昨年の弩2とうってかわった今年の弩3に、どういった狙いがあるのかと言えば、これは前書き/後書きにもあるように「実話怪談を手に取らない人々=中年男性に、実話怪談に対する興味を持たせる」という入門書を目指している。故に、従来の「純度の高い実話怪談フリーク」は首をひねるのではないかと思う。
が、それをしていかないと、結果的に実話怪談の出版点数そのものが今後減っていく可能性が高い。(オヤジだけを狙おうという話ではなく、実話怪談を読まない層を広く開拓しよう、という話で、オヤジというのはいちばん怪談から遠い層なので今回挑戦した、ということ)。


で、もくろみとしての手応えはどうだったのかと言えば、前述の通り弩3はいい感触を得た、ということ。おかげさまで、来年も出すことができそうな気配だ。
この「来年も」という話。例えば、通巻で「1、2、3」ときたから来年も自動的に出せるのかと言われたら、そんなことはない。企業は「売れることを前提に著者に投資をして、実際の売り上げ」という配当を得ている。つまりは企業活動、商売なのであって、実話怪談(に限らないけど出版全体)は芸術やボランティアではないのである。投資に見合う結果を出せなければ、市場の拡大や市場からの評価を得られなければ、「次」はない。

竹書房に移って間もない頃、そして2〜3冊目が出る頃までの「超」怖い話は、常に「次が出る保証はどこにもない」という状態だった。今でこそ「年2回刊」が当たり前になっているような錯覚があるが、売れなくなれば出なくなるというのは今も昔も変わりない。巻数を重ねたから、巻数に番号が付いているから次も来年も確実に出るという保障などどこにもないのである。そういう緊張感は常に必要だと思う。


「弩」怖い話はどうなのか。
1冊目は「「超」怖い話の姉妹編」というご祝儀で出せた。
2冊目はなんとか厭怪談という、ある意味「フリークに受けの良い怪談」ということで好評を博した。
3冊目はそのフリークから遠い位置にいる層をターゲットにした。(純度ではなく、範囲の拡大を目指した)
リピーターに向けたアプローチをすべきところを、毎回違うアプローチをしている。これはリスクのほうが大きい。が、引き出しの開拓であったり、読者の掘り起こしであったり、それなりに得るところは大きい、と思っている。


来年については、どうか。
弩4については、「来年も出してよい」というGOサインをなんとか頂くことができた。
弩3の狙う「実話怪談を読まない層の掘り起こし」が、評価された結果と思っている。
そういうわけで、弩4は出せることになりそうです。
でも、来年何やるか、まだ全然目標が立ってないんだよなあ(^^;)
今年一年、また貯金貯金の日々である。


また、超-1について。
現時点で公開済みの応募作が200話を超えた。
ほぼ毎日、なにがしかの応募作がエントリーされてくる状態が続いているが、このことも悪くない。応募作のクオリティも去ることながら、それだけ多くのエネルギーを注ぎ込む人がいる、という事実である。このことが何を意味するのかと言えば、これは「企業が、その著者に投資をする腹づもりを決めるかもしれない」ということ。また、泡沫、もしくはただの素人と思われていた存在が、お金を生む存在になるかもしれないと投資する側に認識されつつあるということでもある。
思いつき、軽い気持ち、腕試し。なんでもいい。
でも確かに、超-1はそれをとりまく世界を動かしているということを、超-1参加者は心に留めて頂きたい。責任を負え、覚悟しろ、ということではない。
超-1は、ファンのお祭り、著者の思い入れを超えたところで、「ひょっとしたらひょっとするかも」という気持ちを、揺り動かしつつあるということだ。
これは、驚くべきことで、喜ぶべきことで、そして胸を張って誇っていいことだと思う。


僕は、超-1選出者と一緒に仕事をしてみたいと思っている。
また、超-1応募者の作品集も実現させたいと思っている。
僕の思いだけではなく、それに見合う能力と熱意があることを、応募者の送ったあまたの作品の数と質が実際に「会社」を動かし始めている。


自分が起こしたアクションが、自分を取り巻く世界を動かす。
そしてそれを実感できる。
なんとも愉快だ。