世の中がサッカーのことをいろいろ言うので

とりあえず、僕もいろいろ言っておこうかと思ったのだが、まずは日豪戦直後の与謝野議員のコメントが、もっとも的確だと思ったのでこれを引用する。


「過剰期待、過剰落胆」*1


世界の壁は厚くて当然。そもそも簡単に突破できるものじゃない。フランスやアルゼンチンだって、予選落ちすることは何度もあった。
8年前、世界をなめてかかった日本人が、日本代表の三連敗に呆然としたことを僕は忘れていない。*2
弱いから負けた。それだけ。
過剰に期待をするから、過剰に落胆する。それだけ。
結果の前に、経過も努力も何の意味も持たない。
それでも奇蹟は起こる。
ただ、必ず自分に都合良く起こるとは限らない。都合良く起きたら、それは奇蹟ではなく必然、当然になる。
自分にとって都合のいいことが起こることを当然だと思ってはいけない。
そうではないときに起こるから奇蹟なのだと思う。
今回、奇蹟は「当然起きなかった」ということだ。


次に、ルールについて。
スポーツは、ルールに則ってフェアに行われるものだ。という、思いこみが日本人にはある。もちろん、それは文字通りルールに従わなければ、あらゆるスポーツは成立しない。が、ルールを改変することで、自分に有利な環境を作るという手法は、国際的なスポーツの世界では当然のようにまかり通っている。
近くはトリノ冬季五輪のジャンプ。
ホンダがF1から撤退した理由は、「勝ちすぎるホンダが、勝ちにくいようにルール改正が行われた」ことが、遠因だった、とも言われる。
スポーツに限った話ではなく、例えば歴史上、外交上の枠組みというものも同様で、「ルールを守ってフェアにやろう。しかし、ルールは俺が決める。おまえはそのルールに従え」という形で、ルールを決める側に立つことで、自国に有利な環境を整備する努力をすることで、勝負の前に勝つことが出来る。
日本はそうした「ルール作り」「自国にとって有利なルール作り」に積極的に関与することをこれまで避けてきた。または、大きな声でそれをする努力をせず、他人の設けたルールにただ振り回されてきた。
サッカーに限った話じゃない。


W杯に限らないが、国際的スポーツ競技大会というものは、人死にが出ない戦争である。サッカーは特にそれが顕著で*3、国際大会に日本が出場できるようになり始めた頃から「ピッチは戦場であり、サッカーは戦争なのだ」とは言われてきた。
サッカーが戦争であり、ピッチが戦場なら、前述のように「自国有利な勝てる環境を整備する」ことは戦争の基本中の基本だ。
戦争は正々堂々とした力比べではない。自国に有利な、圧倒的な環境を整備することで、確実に勝ちを取るのが戦争だ。
戦争嫌いの日本人は、圧倒的な有利というものを嫌う。
これは、太平洋戦争での対米の「圧倒的な戦力差による敗北」に起因するかもしれない。僕等はそれを直接に知る年頃ではないし、それを「当時の社会を支えた世代」として知っている者ももう残り少ない。
が、「圧倒的に有利な敵によって、圧倒的に不利な見方が負けた」という屈辱は、教育という形でその後の世代に伝承されているようだ。
そのせいなのか、日本人は「逆転」が好きだ。
また、圧倒的に有利な強大な敵を、圧倒的に不利な味方が奇蹟によって倒す、という展開も好きだ。
実に少年ジャンプ的展開だ。


今回のW杯では、緒戦で格下のはずの豪州に負けたこと、8年前に負けたクロアチアにまたしても勝てなかったこと、そして迎えた王者ブラジルに、もしかしたら勝てるかも、なんていう過剰な期待、自らを奇蹟の英雄、約束の勇者であるかのように思いこみたかったことが、おそらくは多くの過剰な落胆を呼んでいるのだと思う。


逆転は爽快だ。
しかし、圧倒的な有利を積み上げる努力を重ねたものを、逆転で倒せなかったからといって揶揄するのは、間違いだ。また、有利な環境を積み上げることができなかった味方のうち、現場だけを貶すのも少し気の毒だとは思う。


ドイツ大会では、日本の試合3試合のうち、2試合までが午後三時開始だった。ドイツでは、ピッチの上は30度以上にもなる猛暑だった。暑さの中では通常以上に体力の消耗が激しいことは、スポーツや力仕事を経験している人にはわかると思う。
予選の3分の2を猛暑の中で戦うはめになったのが、もし「日本代表にツキがなかったからそうなった」のであれば、運のなさということで諦めるしかない。
しかし、午後三時が人為的に調整された結果だったとしたら、どう思うだろうか。
午後三時からの試合開始については、「日本への生中継に合わせるため、放送権とテレビ局と電通の都合でそうされた」と聞く。豪州戦直後のインタビューで、ジーコは明言している。が、それは日本語には翻訳されなかった。同じ内容はポルトガル語から英訳されて海外のメディアへ、それを日本語に再翻訳したものをソースとして、ネットで見ることができる。*4


日本代表の負けは、日本代表自身の弱さによる。
奇蹟に対する日本人の過剰期待が、今の過剰落胆を呼んでいる。
しかし、勝てる条件を負ける条件に変えた憎むべき敵は、ピッチの外で札束を数えている。


このことは、日本のメディアは伝えない。
日本のメディアに広告を配っている会社のすることは、日本では「存在しない」「なかったこと」になっている。


サッカーについては以上。


PS.
一言で済まそうと思ったのに、こんな分量になったのは、やっぱり僕が静岡出身ということと無関係じゃないのかもー、と思っておきたい。
沼津には、記憶にある限り僕の世代では野球のリトルリーグのチームはほとんどなくて、「サッカー少年団」と呼ばれるサッカーのリトルリーグみたいなのが盛んだった。
クラスの男子の過半数はそういうところに入ってんの。
で、そこで覚えてきた「新しいテクニック」を、昼休みやたった10分の休み時間の遊び(もちろん遊びもサッカー)の間に、少年団に入ってない子もできるようになっていく。日常的な遊びもサッカーという意味では、静岡人はブラジルに環境的に近いのかもしれない(笑)
キャプテン翼の県(笑)は伊達じゃないのである。

*1:過剰期待、過剰落胆は実は日本人の十八番でもあって、日露戦争講和に不満を覚えての日比谷事件などは、当時の朝日新聞などが過剰に戦争勝利を唄い、講和条件が過小だと煽った結果起きた。講和に過剰な期待を寄せた結果、過剰に落胆した、その不満が焼き討ち事件となったわけだが、豪州戦の後に渋谷や原宿で暴れた連中も、言うなればマスコミの煽る過剰な期待を真に受けて、過剰に落胆した結果暴れたのかと思えば、日本人は100年経ってもその基本的国民性は変わってない、と言える気がする。

*2:あのとき、「クロアチアくらいには勝てる」「ジャマイカなら勝てる」と連呼してたマスコミが多かったのだが、「勝てるわけねーだろ!」という正論はほとんど取り上げられなかった気がする。

*3:時にフーリガンによる死者や、選手暗殺もあったりはするが。

*4:ちょっとソース失念。見つかったらUPしときます