余技が好き

【余技】(よぎ)名詞
――専門以外に身に着けている技芸。


という奴なのだが、僕は余技が好きなのだと思う。

陸自の「砲撃で描く富士山」を大喜びする心理に連なるのは、ユンボで書き初めしたり、大型パワーショベルでシャンパンツリーのてっぺんのシャンパングラスにシャンパンを注いだり、漆芸職人が携帯電話に螺鈿細工を施したり、和箪笥職人が超ミニチュア家具と大工道具を作ったり、米粒に七福神彫ったり、大仏殿の天井裏に職人の落書きがあったり、お寺に算額を奉納しちゃったりする、ああいうものに通じる。
誤差3mm以下で橋桁設置するような精密土木も好き。
こうした余技は、「専門外の技芸」かもしれないけど、専門の知識と技術と徹底した修練がないとできないものでもある。
何事も徹底してやり、しかも「やり込みすぎて身に付いた技術を使って、無駄なことをする」または、「無駄なことをするために、専門知識・技術の粋を結集する」、しかも「結果的にその無駄なことを実現してしまうことによって、それを実現させた専門知識/技術の高さをさらに高めてしまう」というような。

余技は、技術の高さと修練の結実から生まれる余裕によって成されるものであり、その道の専門家から見れば「本業から見ればお遊び」ということにもなるのだろう。
けれどもそうした遊び心は、裏付けになっている高い技術がなければ実現できないものでもあるわけで、それをさせるのは「高い技術と修練と、心の余裕」なのではあるまいかとも思う。
余技ができないほどの余裕のない人にはなりたくないなー、と思う反面、余技の裏付けとなる高い技術や修練を欠かさない人でありたいなとも思う。
陸自総合火力演習でドキドキしたのは、そうした「余技とその裏付け」を身に着ける技術と修練に感動したということなのだなあ、と一晩経ってみて実感した。