頭の筋トレと善魔

気分転換と脳みそ筋トレwとして。


民主主義というのは人治主義ではなく法治主義によって成り立っている。
人治主義というのは、「○○○さんが言うことが正しい。法律が間違ってる!」という奴で、権力者*1の個人的権限や主観が条文法を上回る統治スタイル。
法治主義というのは、「○○○さんがどう言おうと、みんなで決めた法律ではこうなってる!」という奴で、有権者選出の代理人(代議士)を経て間接的*2な民主主義的手法で定められた法律には、身分を問わずに従わなければならない、という統治スタイル。
現代の中国、ロシアや、大統領・元首が自分の任期を自由に延長したり無期限にしたりできる北朝鮮のような国々は、人治主義の国であり、選挙によって代表者が選抜される民主主義の国は法治主義の国。
まずここまでを頭に入れる。


次に、挙証責任。
何か問題が起きた場合。もしくは、それが問題だと考え指摘する人間がそれを訴え出た場合。
「出来事(A)は問題であり、それに関わる当事者(B)は正しくない!」と、原告(C)が訴えた。
こういった指摘が起きたとする。
この場合、挙証責任(この場合は(A)に関して(B)が正しくないということを示す証拠)というのは、訴えられた(B)ではなく、訴えた(C)にある。

(C)が「(B)は正しくない」といい、
(B)が「そんなことはない身に覚えがない」と反論した場合、
(B)が正しくない証拠を挙げて証明する義務を負うのは、
疑われている(B)ではなく、
疑いを掛けた側である(C)だということ。

これには「悪魔の証明」というものを理解しておく必要がある。
悪魔の証明というのは、「ないことは証明できない」ということ。
あることは証明できるが、ないことは「ない」のだから始めからなかったことを証明することは不可能。
例えば、幽霊が存在するかしないかという証明を求められたとする。いるかいないかはわからないけれど、「いるかもしれない」という証拠を挙げることはできる。例えば物証を挙げて、「幽霊が残した傷痕」だとか「幽霊が映っている心霊写真」といったものを提出することはできる。これの信憑性については横に置くとしても「いた証拠」として示すことができるものではある。
一方、「いなかった証拠」を挙げることができるかというと、それはできない。
なぜなら、【最初から存在しなかったものは、痕跡を残さない】からだ。つまり、いなかったことを証明する側が証拠を提示した時点で、その痕跡を認めてしまうことになるわけで、痕跡がなかった証明というのは不可能だ。こうした証明不能な証明を求めることを「悪魔の証明」という。


次に、疑わしきは罰せず。
これは法理審判の大原則だそうで、「疑わしくても、挙証責任者が確実な証拠を挙げることができず、どちらとも言えない状況」のときは、被告人に有利な選択肢が選ばれるということ。
挙証責任者が物証を示せない疑惑は、疑惑が濃厚であっても「挙証責任者によるでっち上げや謀略」の可能性を排除できない。もし、訴える人間が挙証責任を挙げずに、誰かを掣肘することが可能になると、誰かを訴えるのに証拠などは不要になり、片っ端から指弾していけばいいことになる。
「文句があるなら自分で身の潔白を示せ。それができないなら有罪だ」
これは随分乱暴な話で、先の「挙証責任」「悪魔の証明」「疑わしきは罰せず」の基本原則三つをすべて侵害している。


遵法というのは難しいもので、厳密に言うなら法が認めているか法が「明確に禁止していると断言できない」場合は「疑わしきは罰せず」が適用され、その上で同様の問題が再発しないように未整備の法律の改正や修正が逐次行われていくことになる。
立法というのはそういうもので、同様の問題や未整備法は常に山積しており、それにどういった優先順位を付けるか、どういった対立点の妥協解決を行っていくかについて、有権者が事細かにチェックしたり立ち会ったりすることは非常に難しい。有権者には目の前の「日常生活」があるからだ。
そうした日常生活を優先し、有権者代理人として優先順位や妥協解決に従事する公僕が立法府の代議士ということになる。公約として唱えられる優先順位のどれに賛同するかを有権者は決められた機会ごとに行われる選挙で選び、代執行者にそうした立法を委任する。これが間接民主主義。


そうして法律が成立したとする。
成立した法律が違法であると禁止していることがあって、法律が成立する前にその新しい法律では違法になることをしていた事例があったとする。
新しい合意、新しい法律ではもちろん違法なのだが、その法律が起こる以前に行われた例を遡って罰することはできない。法が禁止していることを知った上で違反した場合は犯罪だが、法が禁止していないときに行われたこと(その当時は合法だったこと)を、後世の事後法で裁いてはいけない(法の非遡及性)というもので、これも法理審判の大原則のひとつ。
もし、事後法によって遡及して処罰が与えられるとしたら、戦国武将は大量殺人罪で有罪にされなければならない。公民権運動以前に選挙権を与えなかった明治政府や江戸幕府日本国憲法に違反しており訴えなければならない。
昨今施行された事後法による法の遡及の例として大韓民国の「親日反民族行為特別法」がある。この法律が施行される遥か以前、韓国が日本領だった時代に日本政府に協力したものを記録し、その子孫の財産を現在の韓国政府が接収できるという関連法に連なる。これなどは韓国が日本領だった時代、日本政府に協力することは違法ではなかったのを、後世の法律で違法と定める事例のひとつと言える。
法治主義の大前提からすれば、これは親日関連法そのものが違法ということになる。*3


いろいろな問題と絡んでくるというか、特定のどれを指した話というわけでもないのだが、民主主義の国で法治主義に基づいて生活している(そしてそれらの法に守られたり、そうした法を改正する権利と機会を持っている)のであれば、そうしたことをちょっと立ち止まって考えるくらいのことはしても罰が当たらないんじゃないかな、と思った次第。


ある日突然、「お前、人を殺しただろう。みんながあいつならやりかねないと噂している。殺してないというなら証拠を見せろ。おまえが証拠を出せないなら、俺が証拠を挙げる必要などなくお前は殺人犯だ。さあ、明日決まる法律でお前は即日死刑!」なんてことをいきなり言われる日が来ないとも限らない。
法理の手続きを踏まえずにいた者が、いざというときだけ自分だけ例外になろうってことを許さないのが法治主義というものだ。


そういうものの一切の横車を通して涼しい顔をしていられるのは、実は犯罪者ではなくて確信を持った独善主義的正義の味方じゃないのかなー、と思ったりする。
自分の行為が悪事であり違法であるということを理解した上でそれに耐えるというのは、人間なかなかできないものだ。
しかし、「自分は絶対的に正しく、正義であり、正義であるからには自分を遮るものを排除する正義の権利を持ち、悪として処分されることに伴う不利益は相手が悪いのであって自分にその非はない」と、自らに特例的権限を認めてしまう人間ほど強いものはない。
正義の味方が裁判を経ずに悪人を私的刑罰(リンチ)することができるのは、自身が絶対善であるという確信があるからだ。


遠藤周作曰く、人は悪魔を警戒し悪魔を唾棄する一方で、〈善魔〉に魅入られやすい。そして善魔に魅入られた者は、自分が善魔の虜ととなって独善に支配されていることに気付かない。
人治主義は善魔の最たる姿であり、「俺以外の全ては間違っているが、俺だけが正義の側にある」という強硬的独善は、その人自身をも不幸にする。


善とはほんとに難しい。

*1:時に個人とは限らない。

*2:時に直接的

*3:他に、東京裁判についても同様の視点から違法だとする考え方がある。1941年、1936年など戦前には「人道に対する罪」「開戦した罪」などの戦争犯罪という国際法は存在せず、戦勝国軍事法廷で敗戦国を裁くために事後法として成立し遡及適用した、とされているため。