テレビと家系図と豪快な歌声

部屋を掘っていて、余剰テレビ発掘。
最近、テレビは居間でCSを見るか、仕事中に地震を感じてワンセグを見るかで、全然テレビ使ってない。
今の家に越してきたとき、アンテナが生きているかどうかを確認するために大急ぎで買ったテレビ(そのときは、逆にビデオ端子のあるテレビを一台も持ってなかったorz)があるのだが、僕の記憶にある限りでは恐らく10回前後くらいしかスイッチ入れてない気がする。事実上新品*1
えー、どなたか欲しい方。
カネの取れる年式ではないのでロハで。


取りに来れるか、晴れた日に僕がバイクで配送(箱無しw)のいずれか。
できれば取りに来られる方優先で。


さらに、母方の家系図のコピーを発見。
天御中主尊に端を発し、藤原鎌足が開祖で、北家(房前)を経て利仁が斎藤(母方)・加藤(父方)の祖で、そこから父方は関ヶ原の西に、東についた母方は江戸時代をずっと旗本のお殿様で過ごしたらしい。
で、母方の先祖に青木昆陽がいるらしい。
……という話を子供時代に聞き、せがんで母方の家系図なるもののコピーをもらったことがあるのだが、それに端を発して母方の親戚の間に俄にルーツ探しが流行(笑)。僕の大叔母や大叔父に当たる人たちがずいぶん頑張って江戸初期*2〜江戸末期〜明治期に於ける斎藤家の足取りを丹念に調べた。
その結果、五代目青木昆陽の娘を嫁に貰った斎藤為儀貫之、その息子斎藤泰吉(七代目青木昆陽を継ぐ)が青木昆陽係累と繋がるらしい。だから大叔父さんに「アオキさん」がいるんだな、と僕は納得したのだが、親戚の調査熱はそこに留まらず、さらにその為儀貫之の娘とその後に着眼した。
十五代将軍徳川慶喜の異母弟で、パリ万博に幕府の名代として渡仏してる間に幕府がなくなってたという徳川昭武の妻になっているご先祖・斎藤八重という女性がいるのだが、これが斎藤為儀貫之の娘になる。
昭武とこの八重の曾孫にあたるのが今の常陸宮正仁親王妃華子殿下になるのだそうな。
ここに辿り着いて、親戚は「わーい」と大喜びで調査を終了したらしいw。もう十何年も前の話。

で、この家系図の原簿(のコピー)は、八重の兄で直系の十代目・斎藤誠之→栄(長女)→庸(長女:ツネ)→で終わっている。この庸さんは昭和41年に73歳で亡くなったことまではわかっているのだが、この後が誰に続くのかがわからない(^^;)
たぶん、母方の誰かなんだと思うのだが……。
原簿もこの庸さんが亡くなったこと(+法名)を書き足したところで終わっている。その後くらいに原簿からコピーしているので、現在この原簿に何かが追加されたかどうかがわからないorz


ぼちぼち、今の代の人を書き足さないといけないんじゃないかなあ、という気がしている。
何年かに一度、発掘するたびにそう思うのだが、「やらないとねえ」と本棚の隙間に突っ込んで、また数年間眠ってしまうという……orz


とりあえず、原簿のほうは明治末期に徳川昭武室・斎藤八重の兄・誠之によって調査・整理され直したものらしい。原簿の端書きにそのようなことが書いてあった。
当時の誠之は「静岡藩士」とある。静岡藩は知っての通り大政奉還の後に徳川家と旗本達が下った現在の静岡県静岡藩士=都落ちした旗本というわけだ。徳川昭武静岡藩士・斎藤誠之から見れば主筋になると思われるのだが、そこに娘を嫁がせているあたり、どういう経緯があったのかはやはり気になるところ。
誠之と八重の父である旗本「斎藤為儀(九代為儀)」については、なぜか和算関連の資料にそれらしき名前がある。
http://www.morikita.co.jp/soft/0164/bunken.pdf #25p
天保6年11月、新宿区四谷の天王社(恐らく、現在は須賀神社)に内田恭門人として算額を奉納した、とある。どうもその産額はもしかしたらまだ紛失せずに残ってるかもしれないらしい*3

算額と言えば今も残る和製数理パズルであるわけで、こんな近いところにご先祖の痕跡があるとは。


これはアレですか。やっぱり、手を付けないとダメですかご先祖様。



溜息を吐いたところで、その家系図の下からなくしたと思ってた「豪快な歌声」のCDが3枚も出てきた。
わーい。
とりあえず吸い出そうっと(笑)

*1:量販店で買った新品の平面ブラウン管のTV。Panasonicの00年式21インチくらい。液晶TVではありませぬ

*2:実は鎌足以前もかなり書き込んであるのだが、このへんは眉唾ではないかと……

*3:でも、すでに文献しか残ってない可能性のほうが高いっぽいorz