終戦記念日

本日、終戦記念日
だいたい今日に合わせてどこも太平洋戦争特集、終戦特集、平和祈念、歴史を振り返る、火垂るの墓、なんかをやっている。
僕は戦後世代で、僕の両親あたりが子供の頃、戦争が終わったくらい。
日本人が先の戦争について語る場合、
非戦闘員は「空襲」「原爆」「焼け野原」を思い、
戦闘員は「玉砕(特攻)」「飢餓」「負け戦」を思う。
戦中のイメージは「大本営発表」「鬼畜米英」「打ちてしやまん」で、
そして終戦のイメージは「玉音放送」「進駐軍」「戦犯」であるらしい。


キーワードを並べて浮かび上がってくるのは、
「悪い軍人が大陸を侵略し、真珠湾に不意打ちをかけ、アメリカと戦争を始め、原爆という【罰】を下されて戦争に負けた。悪いのは戦争を始めた日本であり、戦争を主導した政治家・軍人は戦争犯罪人として処罰され、日本は戦争という悪事を働いたことを反省しなければならない。故に日本は戦争という悪事、軍事という悪行から身を離し、非武装の平和を希求しなければならない」
という感じ。
マスコミの終戦記念日番組や、反戦平和を言う市民団体の要旨、建前としての政治家の「内向きの宣言」もそうだし、学校教育でも概ねこのラインに沿った教え方をしているように思われる。


さて。
先の戦争がいつ始まったかを聞くと、「真珠湾に奇襲攻撃を掛けたところから」と言う人が多いので、なぜ奇襲攻撃を掛けなければならなかったのかの前段階をちょっとおさらい。事情やその他いろいろな解釈があるので、このへんは解釈の一つということで。


戦争というのは相手があって始まるもので、前回の日本の戦争は「資源確保と市場確保」のための外交交渉が手詰まりになったことがその主因である。中国との日中戦争は、中国共産党*1による国民党を装った日本軍攻撃を、国民党軍のものと誤解した日本軍と国民党軍の間に戦端が開かれたのが始まり。この時点までの日本の大陸進出は、「資源開拓と中国市場の確保、ソ連の南下牽制」で、大陸市場の権益を巡ってはアメリカ(当時は民主党)と競争関係にあった。
そのアメリカが主導する、ABCD包囲網*2により、日本向けの資源(特に石油など)が断たれた。
そのままいけばジリ貧で、完全に資源を断たれた状態でABCD諸国に言いなりされる恐れがあった。明治維新以降、中国その他の国々が植民地として食い荒らされていくのを間近に見てきた日本は、「植民地にだけはなるまい」「自立だけは守らねば」という思いが強く、当時の帝国主義の世界では「植民地(市場)を持つ側にならない限り、植民地にされてしまう」という二者択一弱肉強食が常であった。
石油資源を断たれた日本は、そのまま座して待つとアメリカ、イギリス、オランダあたりに分割された植民地にされてしまう、ということを何よりおそれた。
その結果、艦隊を動かせる石油・弾薬その他の資源があるうちにアメリカを打撃してダメージを与えよう、という選択肢が浮上する。これは、ABCD包囲網を実際に主導していたのがアメリカであるということ、大陸の権益を巡っては日本とアメリカは競合関係にあったことなどから。
日露戦争の勝利経験がある日本はアメリカにも勝てると踏んでいた、という解釈も多いのだが、日露戦争の勝利経験を正気で訓戒にできていたとするなら、「太平洋艦隊を叩いてダメージを与え、早い段階でアメリカと講和する」というつもりだったんじゃないのかなとも思う。戦術的にはともかく戦略的に完全勝利を得るのは難しいので、勝てないまでも負けない闘いをやろう、という魂胆だった。
実際には、宣戦布告の不手際、国民党とルーズベルトの密約、その他諸々の条件が重なって、アメリカは手を引かない方向に転がっていってしまう。
戦争中の情報統制などについては、どうも「大本営発表」のイメージが強いせいか、「軍が国民を騙して戦争に引きずり込んだ」「国民は被害者」のような記憶のすり替えが見られるのだが、戦略的講和のための戦術的勝利を過大に報道し、より多くの勝利を望むように国民を煽動する報道を行っていたのは、当時のマスコミ(朝日・読売他)。緒戦で勝ってしまったこと、マスコミが焚きつけたことが、軍部に引っ込み(講和)のチャンスを失わせたという部分もあるように思える。*3


いろいろ飛ばす。
原爆を落とされる2週間ほど前、原爆を投下される前に講和(降伏ではない)するという動きがあったのだそうだ。これは皇室外交のパイプで、親交のあった北欧諸国を通じて講和の道を探っていたのだが、それが潰えてトルーマンチャーチルの合意でついに原爆投下。
日本は無条件降伏に至る。
無条件降伏と言いながら、天皇制は維持され、サンフランシスコ条約発効までの間も議会は存続し、何より日本の戦争目的だった「植民地にされずに自主独立を守る」というのは、なんとか維持回復された。*4


戦争を指導したとして訴追された戦犯は、東京軍事裁判で裁かれ、うち20名ほどがA級戦犯として有罪、7名が処刑された。
この7名及び戦犯として有罪になった人々はサンフランシスコ条約発効後に、国会で免罪され「名誉回復」が行われている。このため、日本には現在、「戦犯」は存在しない。
この国会での名誉回復は、与党野党(共産党も含む)全会一致で可決されている。また、この名誉回復については、当時の日本中で名誉回復の署名活動が行われ、4000万件以上の署名を集めていることが、その背景にもなっている。
この結果、処刑された元戦犯は、戦争中の直接的な死ではないが、戦争の執行に起因する「公務死」に認定された。そのため、靖国神社に合祀されている。
戦犯が靖国神社に合祀され、公務死認定され、名誉回復されなければ、遺族は遺族年金の給付を受けられなかった。このことに対する当時の国民による同情があって、署名が行われたりもしていたらしい。


ドイツでは、ヒトラーを始めとする首脳部が自殺、残った首脳部は戦犯として処断された。
その結果、「ドイツはナチスに騙されていた」という、罪悪感回避の図式が構築された。ナチスに全ての罪をかぶせて、我々も被害者だったのだ、と考えることで罪の意識から逃れようとした、とも取れる。
日本の場合は処刑された戦犯がその「敗戦の生け贄」に捧げられるはずだったのだが、早い段階で当時の日本人は戦犯の名誉回復に同意してしまっている。ドイツで言えば「ヒトラーの名誉回復にドイツ人が同意する」みたいなもので、このへんが中国や韓国の納得いかないところなのだろう。


また、宗教観の相違というのも話をややこしくしている。
小泉前総理がしばしば引き合いにだしていたが、日本では「生前どんな悪人であったとしても、死んだら神様仏様になる。死後は、生前の罪を問わないのが日本人の死生観」である。反省は求めるかもしれないけど、死人にそれ以上の責めを与えない。また、切腹の義は「死んでお詫びをする」というもの。
「サムライの流儀」を尊ぶ日本人の感覚では、「死んでお詫びをした」のだから、もう許してやれ、ということになるのだが、中国・韓国など大陸の流儀というのは日本のそれと違って、死体になっても死体を損壊して辱め、一族郎党は皆殺しにし、一族郎党が残るなら子々孫々まで先祖の罪を負い続けなければならない、根絶やしにするまで許さない、というもの。
つまり、日本人は「処刑という罰を受け入れ、死んだことで処罰は遂行された、死んでしまったのだから禊ぎは済んだ」と考えるけれども、中国・韓国など大陸の流儀に照らし合わせると、日本人の全てが無条件に屈服するか、根絶やしにされるまで彼らは日本を許さない。根絶やしにしてしまえば、日本が赦しを乞うことも反抗してくることもなくなり、初めて彼らは安心できる。(一族郎党を根絶やしにする大陸の習慣は、報復をおそれてのもの)
これはもう死生観、信仰、伝統、風習の違いなので、どちらか一方の流儀を双方が認め合わない限り、そして納得しない限り、日本の流儀での禊ぎ完了を、中国・韓国は絶対に受け入れない。そういうものなのだと思う。


戦争とは、相手があってするもの。
こちらにその気がなくても、相手がファイティングポーズを取り続ける限り、戦意がないことを示したところで相手は受け入れない。
今、日本に戦意を向けている国はあるかと言われると、まあ周辺にそのき満々の国がいくつかあるが、隙を見せればやる気満々の国というのはままある。


日本人は戦争に負けたので軍事アレルギーになった、と言われている。実際そうなのだろうと思う。
日本人が「戦争はよくない」「軍事はよくない」と思うのは、負けたからである。
もしあの戦争に勝っていたら、或いは完敗せずに講和できていたら、戦争はよくないとも、軍事は悪い物とも思わないかもしれない。


日本人が嫌いなのは、恐らく「負け戦」なのではないか。
今からもう一回やる、今度は100%勝てる、ということになったら、恐らく景気よく煽動するマスコミに煽られて、勝ち馬に喜んで飛び乗るのではないか。つい最近も、マスコミに煽られて負け犬から勝ち馬に乗り換えた人はたくさんいた。
つまり、マスコミに煽られて勝ち馬に飛びつこうとする国民性は、僕らが生まれるより前の、あの戦前の日本と全然変わってない。
だから思う。
またやっちゃうんじゃないかなあ。日本は。


もうひとつ思い出したのは、ベルサイユ条約
日本は度重なる譲歩を強いられ、保有艦船の縮減を強いられるのだが、このとき当時のイギリスだったかの外交官が、「ギリギリまで文句を言わずに耐えるので、調子に乗って条件を上乗せし続けた。すると、ある限界を超えたときに日本は突然暴発した」という感想を残してるんだそうな。
日本人はお人好しだ。
相手の好意を当てにし、嫌われることを恐れる。
それで我慢する。我慢に我慢を重ねた挙げ句に、我慢の限界を超えると突然暴発する。ABCD包囲網という譲歩の強要は、真珠湾攻撃という暴発を招いた。故に、太平洋戦争(日米戦争)は、「譲歩の強要の限界を押し切ったアメリ*5が招いたもので、ハルノートを実質的な宣戦布告と受け止めた日本の開戦決意は、生存のための自衛戦争である」という解釈もあったりする。


いろいろな文書や、いろいろな語録が残っている。
当時の数字や官報の記録も、研究資料としてだけでなく、ちょっと本屋や図書館に行くか、ネットをさらっと漁るだけでいろいろ出てくる。
そして、いろいろな解釈を自由に発言もできる。
いい時代だと思う。


願わくば、いい時代が続くことを。

*1:当時は国民党による中華民国が中国を主導していたので、中国共産党は抗日ゲリラ組織のひとつ

*2:アメリカ、イギリス、中華民国、オランダ

*3:日露戦争でも、早いところ講和しようと終戦努力をしている最中に、講和条件に不満を唱えたり継戦を叫んだりしていたのは、当時の朝日新聞他のマスコミ。

*4:孫文は、1945〜1955年の10年間、サンフランシスコ条約発効までの間は、日本はアメリカの植民地になっていた、としている。戦後の日本はさらに今もアメリカの植民地だと嘆く人々は、右にも左にもいるw

*5:ハルノート