SNSとか実名とか匿名とか
本日はぼりぼりとゲラを読む日。2冊分orz
その前に、軽くウォーミングアップ。
ここんところ、SNSがドジ踏んだ的な件が頻発中。それと有名人のblogが炎上する件とかも頻発中。
なので、今日はそのへんで。
そういや僕はパソ通時代からのネットワーカー*1であるわけなのだが、あれからン十年経った今でも、起きている問題の根本的な性格・性質っていうのは、パソ通時代とあまり変わってないよなあ、と思わされることがしばしば。
まず、匿名と実名という対立軸的な問題。
これは今も色々問題になったりしてるんだけど、とりあえず要点整理。
匿名
肩書き/ポジショントークから離れた本音の発言ができる。
社会的責任を考えると、思っていても言えないようなことを言える。
発言にフィルターが掛からないので、純粋に内容だけ検討できる。
検討の途中、自分の中の意見が変わった場合、現在と矛盾する以前の発言を切り捨てる(=リセット)ことができる。
現実(ネットの外、という意味で)の生活に影響/干渉を受けにくい。上記のデメリットとして、
社会的責任を負わない無責任な発言が増える、一貫性がない、などが指摘される。
実名
特定の立場からの、責任ある発言ができる。
発言内容について、経験や実績、立場などを第三者が担保できる。
発言内容について、肩書きや経験、実績などの影響力を付け加えることができる。上記のデメリットとして、
現実の生活への影響/干渉を考えて無責任な発言を控え慎重な発言をするようになる、ポジショントーク(建前論)が増えて本音が出にくい、立場を利用した強制が起こりやすい、一貫性(整合性)を重視せねばならず途中で間違いに気付いても方向修正をしにくくなる(意見を変える、相手の意見に折れるのは恥ずかしいと考えるから)
だいたいパッと考えるとこんなとこ。
匿名/実名というのは、それぞれ利点不利点があるわけで、しかもそれはそれぞれ表裏一体となっている。何がいいとこで、何が都合が悪いかというのは、その人が「どういうつもりでいるか」によってリバーシのようにひっくり返る類のものであり、どちらにも正義正論がある。これについて、一方的に「どっちが正しい」と断言する輩がいたらw、それによってその人がどういう目的と結論と旗色に付いているかを見極めることにも役立つ。
極論すると、匿名・実名は次のような対立項を持っている。
- 匿名のメリットはリスクに対する責任を負わないことだが、代わりにそれによって得られる利益も逃すことになる。
- 実名のメリットは利益を得られることだが、代わりにそれによって得られるリスクをも引き受けることになる。
つまり、「リスク回避」と「利益獲得」という対立項を巡って、どちらを優先して考えるかで、どちらに正当性があると考えるかが決まってくる。損して得取るか、損をしないで得も得ないかなのだ。
その発言者/支持者が個人的な利益に執着せず、しかしリスクは御免被る、という場合、匿名を取る場合が多い。
社会的地位・身分の保護が利益確保より重要な場合に取れる行動は、
「慎重に発言するか、身分を隠すか、そうでなければ発言しないか」
の三択になる。実名であることを厭わない人は、慎重に発言するという選択肢を取り、発言に責任を負おうとする。
発言に責任は負えないが言っておきたいという場合は匿名になることで、リスクを回避する代わりに、その内容が称賛/支持されてもそこから来る利益を得られない。
そのどちらも取りたくなければ、最初から発言しなければいい。沈黙を守ることでリスクもないが利益もない。つまり、存在しないのと同じ。
実名主義=利益獲得を優先する人というのは、名前・肩書きを出すことによって、何らかの利益を得ている人、有名人、著名人に多い。また、社会的地位を「利用する」ことで利益を得ている人、と言い換えてもいい。医者、弁護士、芸能人、政治家など、社会によって保証された身分が、他人の考えを変えるのに必要な人などもこれに入る。身分*2にこだわる人、その身分で仕事をする人も、どちらかと言えばこちら。
実績と身分が人を作っているので、慎重になるけれども同時に「責任を負っている」という自負が強く、責任を負わない=匿名主義を無責任であり卑怯だと考える。
匿名主義=リスク回避を優先する人というのは、名前・肩書きを出すことが、実生活を脅かすことになるという人と、強制手段として有効な名前・肩書きを持っていない人、に分けられる。
まず、「名前・肩書きを出すと実生活が脅かされる」という人の場合、ネットの生活と実生活は分離されていて、実生活の維持/保護がネットの生活より優先される、と考える。故に、ネットでの事象(リスクも利益も)が実生活に及ばないように、利益を捨ててリスクも回避する。ネットでどれほど利益が上がるチャンスがあっても、それを取れない(取らない)。
「強制手段として有効な名前・肩書きを持っていない」という人は、そもそも肩書きや身分で相手に何かを強制するという手段=実名という切り札そのものがない。その状態で実名を晒すというのは、実名のデメリット(=実生活を脅かす危険)だけを取ることになるわけで、まるでメリットがない。
実名主義の有名人と匿名主義の無名人との間の対立というのは、切り札の有無と関連しているところもあるわけだ。
実名主義の有名人と実名主義の無名人の場合、「強制力としての実名・肩書きの有無」を考えれば、有名人は「名」を出したほうが有利だから実名を取り、無名人は出すべき「名」がないから、最初から負けている。有名人の言いなりになるとは言わないけれど、実名主義の無名人はリスクばかりが大きくなる。
ただ、この場合は実名主義の有名人側にも大きなリスクはある。この関係が、一対一の対決なら実名主義の有名人のほうが圧倒的に有利。個室で面談とか。
でも、実際には一対一の密室の対決よりも、それを不特定多数の無名人が見守っているという状況のほうが多い。実際には「一対n」になることのほうが多いし。そうなると、状況は次項の「実名主義の有名人と匿名主義の無名人」に変質する。
実名主義の有名人と匿名主義の無名人の場合、実名主義の有名人は強制力としての実名・肩書きだけでなく、実名であるが故のリスク(責任)も負う。しかし、匿名主義の無名人は強制力は持たない代わりにリスクを負わない。blogが炎上した有名人(や、実名主義の人)が、匿名主義に対して「卑怯」というのは、多分本気で言ってるんだと思う。自分は責任を負っている、という自負の元に。ただ、実名の無名人には肩書きという強制力がないということを、実名の有名人側がどれほど理解しているのかは怪しい。
実名主義の有名人と匿名主義の有名人の場合、匿名主義である時点で、有名人であっても「名」、つまり肩書きや身分などの強制力という手段を放棄している。実生活(または有名人としての肩書きや身分)へのリスクは回避できる代わりに、本当は有名人であっても事実上、無名人と同じ立場に置かれることになる。そうなると、身分発言vs発言内容の戦いとなるわけで、実名主義の有名人は、実質的に相手が有名人であったとしても「立場論」によって相手を押さえ込むことができなくなる。だからここでも、実名主義の有名人は相手が誰だか特定できないので、「卑怯だ」と言うわけだ。
ただ、このへんの実名主義の有名人の考え方の根底には、逆に「立場論で相手の意見を封じようとする」という、立場と実生活を人質に取る態度があるわけで、そっちのほうが卑怯なんでないかい、と言う見方もできる。「どちらも実名で正々堂々とやり合おうじゃないか」というのが実名主義の有名人にとっての卑怯じゃない状態ということになるが、立場を人質に取り合うのは、結局のところ本質的な戦いにならない時点で、あんまり意味がない。互いに身分と肩書きを痛めたくないから、本気にはなれないわけで。
匿名主義の無名人と匿名主義の無名人の場合、公平かつ対等でよろしいんじゃないかと思う。発展性がないという言われ方もするし、実際そうかもしれないけどw、立場が関係ない同士だからぶっちゃけてできる話や、根本に踏み込める話というのもあるし。
匿名主義の有名人と匿名主義の無名人の場合は、無名人同士とまったく変わらない。有名人が実名主義でなくなった時点で、その人は無名人と同じなのだ。
実名主義の無名人と匿名主義の無名人の場合、実名主義の無名人は、単なる社会的自殺行為にしか見えない。個人的には危ないからおよしなさい、と言いたい。
ちなみに、実名主義の無名人と匿名主義の有名人も、ここに含まれる。匿名主義、身分・肩書きを行使しないっていう時点で、中の人が有名人であったとしても、それは無名人と変わらないからだ。強制力(肩書き・身分)のない実名情報を晒した側が、圧倒的に不利益だけを被るのは避けられない。
少し歴史を辿ってみると、元々、パソコン通信の時代というのは、IDの取得に個人を特定する必要があったので*3、結構実名主義だった。
で、草の根通信なんかでもIDは基本的に一人一個なので、個人特定はある程度されたけど、GuestIDを使って個人を特定しないやり方というのはすでにあった。
そのうち、インターネットが登場するんだけど、初期のインターネットというのは実名主義だった。元々、研究者が連絡を取り合ったり、互いの論文を参照し合ったりというのがインターネット*4の開発目的&利用用途だったわけで、その意味で、実名じゃなきゃ困る。メールアドレスの@の前は個人を示し、@の後ろは「所属団体/組織」「国」を表すようになっているのを見てもわかるように、どこの誰ベエさんかわかるように、という思想はその初期からある。
ただこれは、「研究者が互いに相手の論文を参照し合う」という目的からもわかるように、研究者は互いに有名人であるから、そのほうが都合が良かった。
インターネットが一般に普及すると、パソ通時代のUG的*5なものがインターネットの「UG(=アンダーグラウンド)」という形で芽生えてくる。
パソ通時代、利用者に社会的身分がある肩書き主義の大人が多かったniftyと、学生など肩書きのメリットがないが故に肩書き主義ではない若者が多かったPC-VANの文化の違いがあったのだが、肩書き主義というのは結局のところ「エライ人の言い分」に従わなくてはならない社会的仕組みと言える。肩書きのあるエライ人が言っていることが正しければ黙って従っておけばうまくいくのだろうが、肩書きのあるエライ人がいつも正しいことを言ってるとは限らない<ここ重要
そうなると、実名主義=肩書き社会ではエライ人が言ってることを、肩書きや身分が優先すると質したり正すことができなくなる。これは組織・社会の硬化を進めることになってしまい、柔軟な対応やアイデアが出にくくなる。
肩書きがある人にとっては、自分の意見を押し通すためには肩書きなしは都合が悪いわけでw、身分・肩書きという資産を活用できたほうが社会/組織を掌握しやすい。
肩書き・身分は、才能によって蓄積されたものである、という前提が常に正しいなら、エライ人に丸投げでいいのかもしれないが、そうではない場合の保険は必要だ。
匿名主義は、そういう「そうでない場合の保険」としてあるのだと思う。匿名主義のほうが強く求められるのだとしたら、肩書き・身分のある有名人の本来の実力というのが期待はずれだ、という落胆に根ざしてる部分もあるのかもしんない。
さて、ここでSNSの話になる。
SNS=ソーシャルネットワーキングというのは、mixiなどで広く一般的になった。これは、匿名主義に対する実名主義への回帰とも言われた。
日本でmixiが生まれ、支持された背景には、2ちゃんねるなどのような匿名文化に対するカウンターカルチャーという側面と、ネットを実生活(日常)という実名文化の延長線上と考える側面の双方があると思う。
2ちゃんねるのような匿名文化に対する……というのは、これは匿名文化では影響力が行使できないことwへの苛立ちがある人の主張ではないだろか。名前と肩書きを強調できたほうが(ただし、支持されているのなら)、実名かそれに準じるほうが利益が大きいし。
実際には、匿名がどうこうよりも「実生活/日常生活の延長」としてSNSを活用している人のほうが多いのでは、という気もする。
SNSには「近所、友だち、昔の同級生」など、実際に実生活で顔を合わせている人々と連絡を取り合うためのコミュニケーション・インフラという側面がある。ネット上で井戸端会議をするようなものか。対話者は互いに「顔見知り」であるという前提だ。
顔見知り同士なら名前を隠す必要はないし、互いの実生活というアキレス腱も握り合っているから、「実名vs実名」と同じで匿名にするメリットがない。
もし、参加者が小規模で、参加者が全員と顔見知りというものであったとしたら、SNSは意味を持つ。つまり、かつての「草の根パソ通」と同程度ならば、非常に意義があり便利だ。
しかし、参加者の規模が大きく、互いに顔見知りではない人間が参加し……というものになってくると、SNSの性格は変わってくる。
mixiなどの場合、かつてあった*6「この指とまれ」のように、「自分が誰であるか(実名)を明かした上で、自分を知っている人に自分を見つけて貰う」という側面がある。これは、同窓生だの友だちだのに見つけて貰うには非常に有益だが、同時に「自分が誰か」という実名のアキレス腱の部分も明かしてしまうことになる。これは非常に大きなリスクであると言える。
参加者が全部顔見知りなら、これはリスクにはならない。
だが、参加者に「どこの誰だかまったく知らない人」が混じっていると話はまったく別だ。
mixiは、ある一時期まで「登録に実名が必要」とし、その実名はニックネームとは別に実際に公開されるルールになっていた。だが、規模が拡大していくに連れて、実名であるが故に起こるリスクやトラブルが顕在化。それにより、登録時に実名を書くことは「推奨されない」ことになった。
ここに至って今もmixiで実名を書いているのは、「実名のほうが利益がある人」「有名人」「リスクの自覚が乏しい無名の実名主義者」のいずれかだ。
また、名前を明かしていなくても、書いている内容でどこの誰かわかる、というのもある。
結局、発言内容、内容の背景から、その人を類推することは可能だからだ。ただこれは、厳密に特定できる場合*7と、影響を受けた人が似たような内容をデッドコピーした場合*8とがあるので、厳密にどうとは言えなかったりもするけど。
んで。
実名が実名である由縁というのは、個人特定に尽きる。
個人特定に利益がある場合と、個人特定が不利益でしかない場合というのは、シチュエーションによって様々であるわけで、どちらだけが正しいとは言えない。
例えば僕などはこのように、大々的に名前は明かしていないwものの、書き物をする人間であることを明かした上で、著書をずらずら並べているわけで、「さぼり記を書いている人は誰々」と、知られている。
だから、さぼり記を書いている僕というのは、ウホウホと利益が得られるほど有名かどうかはともかく*9、半分実名でやってることになる。
利益もあるだろうけど、リスクもある。あいつ何にもわかってねえ、とか言われたらアウトだし、よく言われますorz
SNS(実名)とblog(実名とは限らないけど固有発信)と、2chやニコ動など(個人としての身分や肩書きを要求されない場での匿名発信)という3つの情報発信形態の特性をそれぞれ考えて、その時々に応じて使い分けをするのがいいんでないかい、と思ったり。
SNSは顔見知りの人だけしかいない場所では実名を登録するけど、そうでない人のほうが多いところで、売名の意志があまりないときwは、せいぜい芸名止まり、可能なら「個体識別はできるけど、実生活と接点のない個体名」くらいにしといたほうが安全かも。
「AZUKI」というのは、僕自身の顔が半分くらいは透けて見える半透明のペルソナwなのだけど、それ以外の完全に顔や実名が見えない不透明なペルソナを何枚でも持って、その都度使い分けたり使い捨てたりするというのが、必要なときもあるのかもしれない。
不用意な発言や思い切った発言wを、剥き出しの素顔でやってしまうのはやっぱ危ないし、SNSはそういうことを安心して素顔でやりとりできる場所ではないという自覚は持っていたほうがいいかもしれんなー、とか思うのだった。