人間の認識力について

どんなに悲しいときでも腹は減る。
空腹は我々が生きている証しであり、生きのびる義務を思い出させるシグナルである。
だからメシを食いました。
本日の昼飯は、少し軽めに「ニンジンと胡瓜の2種のサラダ、エビとレンズ豆とコーンのポタージュ、それにパン」。


ところで、人間の認識力というのは割といい加減なものなのだという。
例えば、黒地に白線が交差する図形を見ると、白線が交差している十字路のところに灰色の点が浮かび上がってきたりする。


ほかにも「錯視」で画像検索するといろいろ目の錯覚の例が出てくるが、これらは目の錯覚というよりも、自分がよく知っている図形やシンボル、もしくは隣接する色や図形などから「たぶんそうだろう」と、脳みそが勝手に不足部分を補完してしまうことから起こる錯覚なのだそうだ。
この錯視錯覚を利用したパズルというのもよく見かける。


このように、人間は自分の潜在意識や過去の無意識の記憶、さらにはもっと明確に知識や情報としてよく知っているものと【似たようなもの】を見ると、そこに自分のもともと持っている情報を付け加えて、自分の脳に理解させやすくしてしまうものらしい。反省するサルや二本足で歩く熊の類、動物の表情や仕草が人間のそれに似て見えて擬人化してしまったりするのもそれに当たるし、柳や枯れ尾花が幽霊に見えるのだってそれと同じだ、という人もいる。
確かに先の錯視などは、人間が持つ天然の画像補整機能が「効きすぎた」という状態だと思っていいだろう。


数日前のエントリーでちょっと書いた「ディズニーアニメの新キャラが、ツインテール初音ミクっぽい件」についてもこれで説明できるのかもしれない。ディズニーアニメのほうのデザイナーが、意識無意識下で「巷で流行っている初音ミクの特徴を盛り込んでしまった」という可能性も否定できない一方、「何を見ても初音ミクに見える症候群」というか、「ツインテール」「ロボット」「女の子」という記号によって構成されるもので、もっとも近似であったのが初音ミクであったため、同一とは言わないまでもよく似たものであるかのように脳が誤解してしまった、と言えるかもしれない。


この脳の錯覚というのは、ボカロ界ではさらに顕著で、「鏡音リン・レンのロボ発声を、脳が勝手に補完して滑舌のいい自然な人間の発声のように感じてしまう」とか、「実際には存在しない、想定された模擬人格だけのソフトウェアに、魂が宿っている、人格権があるかのように錯覚し、ソフトウェアを人間と間違えて接してしまう」なども、脳の錯覚と言える。高名な弁護士ですら、そうした「存在しない人格」が存在するかのように錯覚してしまうわけでw、人間の脳の補完機能というのは実に高性能すぎて恐ろしい。*1


霊魂が宿っているものとして無機物に接するという日本人のアニミズム的信仰観・自然観は、韓国・中国大陸と日本の大きな相違でもあるのだそうで、このアニミズム的自然観は大陸側よりも日本を含めた環太平洋/汎太平洋諸島の海洋民族に広く見られる感覚なのだというようなことを、随分昔に故・梅原猛氏の著書か何かで読んだ記憶がある。日本人のルーツとしては、遺伝子的にはバイカル湖畔のモンゴロイドとの一致が知られているが、大陸からの文化・宗教の伝播以前に、南方諸島からの文化の流入・伝播があったことは、これらの自然観・信仰感*2から透かし見ることもできる。
初音ミクのようなソフトウェア(=実体のない無機物)に、霊魂=人格があるものとして接するという感覚は、人形、古道具、山や海を始めとする数多の無機物に霊魂=人格があるものとして接してきた日本人にとっては、ごく自然な感覚であるのかもしれない。
これも、「脳が勝手にそう補完して錯覚しているだけ」と言ってしまったら味気ない話なのだが、怪談屋としては「古道具は長く愛用して大切に使い続けると、老成して魂魄が宿り、物の怪になる」という感覚を愛したいなとも思う。









ところで、本日の昼飯は、少し軽めに「ニンジンと胡瓜の2種のサラダ、エビとレンズ豆とコーンのポタージュ、それにパン」。


……違うよ違うよ。絶対違うよ。サラダだよ。
それ以外のものに見えたとしたなら、それは脳が勝手に補完してるんだよ。

*1:初音ミクの人格権」などについて言えば、存在しない人格の人格権が得られる利益について語るのは、当たってもいない宝くじの使い途について語るようなものではないのかな、という気もする。初音ミクについてそうした権利が主張できるとすれば、商品名を使う場合の「商標権」か、音声データの「肖像権」かと言ったところで、歌っているように脳内補完wによって聞こえるからといって「演奏権」を主張するのは難しい。また、音声データの肖像権を主張できるのは音声提供者の声優にはあるかもしれないが、「初音ミク」にはない。映画の主人公が人気になったとして、それを演じた俳優の人気について、演じられた架空の登場人物側が人格権を行使するなど聞いたことがないし。「存在しない架空の人物の人格権」というのは、守られるべき権利者がいないのに、権利があるとでっち上げることにも似ていて、真面目に論じる話題ではないんじゃないかなあとも思える。この項、大脱線。

*2:宗教と信仰は、同一ではない、というのが僕の捉え方。信仰は「仰ぎ信じる気持ち」で、宗教は「信仰に当てはめる方向性や作法を条文組織化したもの」という感じ。日本人は一般に無宗教と言われている割に、宗教として明確な体を成していない曖昧な信仰心(初詣から罰当たり、祟りから御祓いに至るまで)を持っており、「無宗教なのに信仰心/畏怖心はある」という不思議な信仰感といえるらしい。