ハイトニinお台場

今週のハイトニックは、いつもの池袋ではなくてお台場アクアシティ6Fのフードコートにある特設ステージだった。警察官に解散させられない場所w&屋内でテーブル&椅子もあるという点を除けば、いつもの路上ライブと変わらぬノリであったのだけど、二人とも「1ステージ目は凄く緊張した」とのこと。
どんな繋がりでここでやることになったのかと訊いてみたところ、アクアシティのFM局にハイトニックの曲を掛けてくれないか、とデモテープ(CD)を送って営業活動してみたところ、「それよりステージでやってみないか」というお話をいただいたのだということ。
一見客へのフライヤー配りとか、3種のCD販売*1とか、サポートスタッフに支えられる一方、いろいろ工夫や努力してるなー、といつも感心に思うところ。


音楽が好きでなきゃ続かない一方、学生や若いうちはともかく、それなりに歳いってくるとw音楽を続けることっていうのは凄く大変。
辞めるのは凄く簡単で、「飽きた寝る」と布団被ってしまうとか、「仕事が忙しい」と生きていくことが優先であることを宣言してしまえば、誰もそれを咎めない。
誰も咎めないからこそ、報われるかどうかもわからないのに続けていくというのは辛くて大変なのだと思う。
明確なゴールを設定して、そこに辿り着いたら「もう終わりにしていい」というものなら、たぶんきっともっと楽なのだと思う。
そういうものではないから余計に続けることって大変。
ハイトニックに限った話ではないけど、同じことをずっと続けてる人って本当にエライと思う。


さて。30分ほどのステージを3回やるということで2回目くらいから覗きに行った。池袋からお台場まで臨海副都心線で30分くらい。案外近かった。
でも、お台場とか滅多に行かないんで、全力疾走した挙げ句に道に迷い、アクアシティを目指してるはずがメディアージュの6Fに行ってしまい、2回目に10分ほど遅刻。


この日は対バンで西多摩社中というフュージョンコピーバンドが入っていて、ハイトニックと交互にステージを行う感じだった。
で。
最初に聴いたときから、「雑踏に似合う音楽」とか「雑踏をSEとしてしまう歌」とか、彼らの音楽をそのように感じていた。
なんでそうなのかというのが自分の中でなかなか答えが見つからなかったのだけど、西多摩社中やその他のよく行くライブバンド、そして初音ミクの圧倒的な曲*2の多くと聞き比べていくことで、なんとなくその理由が見えてきた。


例えば、僕らは雑踏の中にあって多くの雑音を聞く。
それは車のエンジン音、パトカーのサイレン、呼び込み、隣を歩くカップルの会話、小学生の歓声、女子高生の嬌声、どこかの店からこぼれてくる環境音楽や誰かがリクエストした有線の曲、ラジオ、店頭のテレビの展示品、などなどなど。
そうしたものを、僕らは雑音=ノイズとして捉えている。
本当はノイズではなく、ひとつひとつには意味がある音や会話のはずだけど、興味がなかったりすると総体として「雑音」として受け取り、また雑音と認識することによって「聞こえているけど聞き流す」という対応を、無意識のうちにしているのだと思う。
大多数の人は、自分の興味の対象に対しては注意深く耳を傾ける。どんなにうるさい電車の中でも、目の前の恋人がにこやかに何かを話していたら、「えー?」とかいいながらも一生懸命聴こうとするんじゃないかと思う。半面、興味がなかったら、目の前でどんなに大音量で演奏していても、その音の意味も歌詞も、まったく頭に入ってこない。それは雑音でしかないからだ。


ライブハウスで聴くロック……に限らないけど、多くのそうした音楽は大音量のもの、そして楽器の数が多くて、音符の数がみっちり詰まったものが多いように思う。Vocaloidを使って作られる楽曲うち、よくこなれてきたものほど使われる音の種類、規模、数は増大する。
これは、なぜか?
たぶん、興味のない人の意識を自分たちのほうに向けさせるため、そしてそれ以外の音を全てシャットアウトして、自分の饗する、自分の主張したい音の洪水で包み込んでしまいたいからか?
雑音=ノイズを遮断するもっとも有効な方法は、全ての音を消してしまうか、消せないノイズを上回る大きな音・間断ない密度の高い音を饗するかのどちらかではないかと思う。
ロックでもダンスミュージックでもフュージョンでもボサノバでも、まあおよそ多くの音楽は、「圧倒する」ことで独自の音世界を作ろうとし、その音の中に聞き手を封じ込めてしまうことに力を入れている。
ライブハウスのように、他にノイズがないはずの空間でも、そうした曲が饗されるのだとすると、やはり「意識を向けさせるには大きな音」というのがもっとも効果的だということになるんだろうか。


しかし、どうだろう。
人間は、許容量を超えた大きな音や、気に入らない音が主張を始めると、無意識に耳を塞ぐ。過度な供給は、積極的に「聞かないように」という対処行動を起こさせる。
一方、小さな音を聞くときには、耳を欹てる。意識を集中し、積極的に「聞こえるように」という行動を取る。
もちろん、その小さな音に注意が向かなければ、それもまたノイズのひとつとして埋もれてしまうのだろうけど、積極的に耳を塞がれるよりはずっとマシ。


ハイトニックは、雑踏で演奏する。
音源は、エレアコが一本、ベースを兼ねるエレキギターが一本、それとワタナベ君のボーカル。リーダーは歌わないので、音源は3つのみ。
押し寄せる雑音には、およそ抗えないように思える。
だけど、不思議と彼らの音楽は雑音に埋もれない。
それを目指して、聴くつもりでやってくる客が鮨詰めになっているライブハウスと違って、路上というのは聞くつもりなんかまるでないという通りすがりが相手である。ライブハウスに比べると、PAを使っても音は響かない。開けている場所なら音は反響せずに吸い込まれてしまうし、周囲が賑やかなら楽器の音も歌声もやはり「その他の雑音のひとつ」になってしまいかねない。


作家がそうであるように、奏者・歌手には主張したいことがあり、耳を傾けて欲しいと思っている。
そのためにもっと大きな音を出し、もっとたくさんの楽器で重層で複雑で間断ない音を繰り出そうともする。
が、ハイトニックはそのたった2本と一人分しかない歌声を、「大きな音」で饗するということは、あまりしていないらしいことに気付いた。
もちろん、ワタナベ君は十分に声量があるボーカルで、朗々と歌い上げるサビ部分などは実に響くのだけど、それ以外のパートでは、むしろ囁くような小さな声や、消え入るほどのところから始める歌い出しなどなどが多い。たった2本しかないギターの音も、意識的にばっさりと、またはぴったりと止まる。
なんというか、音を大きくすることではなくて、無音状態を作ることによって、「今、音が途絶える直前までギターが響いていた」ということに気付かせる、というか。
初音ミクスペシャリストの一人であるデッドボールPの作る楽曲は、イタリアプログレ系ということもあってか、全般に音の洪水系の曲が多いのだけど、彼も案外効果的にメロディをピタッと急停止させるような曲を書いてたなー、ということを思い出した。
言うなれば緩急というか。
無音の音というか。
止めどなく続くのではなく、無音の音が入ることで際だつ音の世界というのがあるのだなあというのを、再認識した。


また、埋もれてしまいそうな声、音、メロディであることが、足を留めた人々に余計に「聞き漏らすまい」と、意識を集中させることに繋がっている部分はあるかもしれない。
ギター、それが途切れることによって戻ってくるいつものノイズまみれの雑踏が、一瞬、無音に聞こえ、何か大切なメッセージを聞き漏らすまいと意識を傾ける。それがまた一層、雑踏によく映える。


手前味噌な話をするなら、僕の文章はごく短い単語で体言止めを試みることがしばしばある。体言止めだけでなく、動詞一個だけとか。
これはそこまでの連続する流れをほんの一瞬だけ急停止させたいとか、読者に思考停止を促すというか、楽譜で言うと1/8音くらいの休符が入る状態というか。柔道で言うと、一瞬、足を掛けてつんのめらせたいというか。
短く止め、一瞬の休符を置くことで、却ってスピード感が出るというのは音楽も文章も同じなのかもー、とここでも人様の音楽を深く識ることが、自分にフィードバックされてくる。いろいろ合点がいって満足。





ライブ終了後、軽く飯なんか食べて、それからデックスの裏手にあるウッドデッキまで出てみた。コンビニで缶ビールなんか買って、夜のピクニックとしゃれ込む。フードコートのビールは中生で700〜1000円もする。缶ビールは500mlを1本買ったって200〜300円だ。
窓から夜景見ながらロブスター食ってる人には、きっとこんな楽しみ方はできないに違いないw
そういや、お台場なんか滅多に来ない上に、夜のお台場はもしかしたら初めてかもしれない。
フジテレビ前から見るレインボーブリッジは大変綺麗でした。
なるほどなー、こりゃあトレンディドラマの舞台にもなるわw
砂浜とか海とか水上バス乗り場とか、いいよなーと思う半面、やっぱいけすかないよなー、と思ったりもする自分はやっぱり貧乏性なのか底辺なのかw


東京はもう僕の地元だから、サンダル履きでどこへでも行く。タバコに火を点けられる場所もだんだん減ってきたけど、できれば缶ビール片手にタバコ吹かしながらぼんやり風景を眺めたい。
そのダレダレな風景の中に、ハイトニックがあると幸せな感じ。





これからしばらくは怪談屋としてかき入れ時というか佳境に入るので、この週末の楽しみが続くかどうかは不明。
6/11(水)の渋谷eggmanのライブに続き、7/6(日)に上石神井SilkRoadでもワンマンライブが決まったらしい。
それまでに仕事終わらさなきゃ。頑張んなきゃ。
目標でけた。

*1:300円の導入編、500円の浸透編、2000円のフルCD

*2:圧倒的、にはいろいろなニュアンスがある。圧倒的多数、という意味もあるし、音量や音色音種音素楽譜数そういったもので圧倒する曲という意味もある。