見出しと本文は異なります

ニュースは増えた?

昔に比べて、今はニュースの数が増えている。
が、それは必ずしも「事件が増し増し」ということでもなくて、なんでそれをわざわざ取り上げて記事にするのか意図がわからない、というような埋め草的なものも交えての数字。
もちろん、報道機関、報道スタイルが多様化し、ニュースを配信する会社も記事を書く記者の人数も増えたということだろうし、デジカメの普及で「○○○さん提供」のような形での一般からの事件画像提供も増えたんだろうし、新聞・雑誌など発行ペースの長いものだけでなく、メールニュース、ネットニュース、携帯電話への記事配信などなど、ニュースの消費需要が増えたことに対して、供給側もあの手この手で追いつこうとしているということでもあるのだろう。

ニュースサイトの自前は記事タイトルだけ

ところで、ニュースサイトがいっぱいあるからといって、それらの全てが個別取材に基づくものかというと、それができることとできないことというのは確かにある。
事件報道の場合、警察からの一次資料を得られるのは記者クラブという互助会に入っている場合のみで、それ以外はあくまで部外者、一般人と変わらない扱いだ。政治・外交関係も同様で、各省庁の番記者がこれらを扱う。もちろん、特派員として現地派遣されてそこから報道を行うケースもあるだろうけど、それだって全てのニュースサイトや携帯ニュースが、個別に行ってるわけではないわけで、ネタ元となっているのは読売朝日毎日日経などの大手新聞や放送局、共同通信時事通信、ロイター、AP通信などの通信社くらい。
ニュースサイトというのは、そういうところからニュースを買ってきて配信しているわけなのだが、それでも一応、配信記事のタイトルくらいは自前で付ける。これは多くの場合、デスク相当の担当者が俳句よろしく頭を捻っているのだろうと推測できる。

見出しは内容と別のことが書いてある

さて、このタイトル。見出しとも言うが、これがかなりの曲者。
冒頭でも述べたように、ニュース需要に供給過多で対応しようとした結果、とにかく世間はニュースに(そして大部分は見るまでもないようなものに)溢れてるわけで、センセーショナルなタイトルでなければお客様はニュースを堪能した気分にはなれないから、できるだけショッキングで目を惹くようなタイトルのほうが好まれる。
そうすると次第にタイトルが内容(本文)とはまったく違うとか、180度逆の意味とかいうことが起きてくる。もしくは、発言の中のごく一部だけを取り上げて拡大解釈とか。解説と称して、発言者と逆の意図を「という恐れが広まりそうだ」などと願望を付け足す記事もあってややこしい。

見出しだけで世間を分かったつもりになる?

だけど、僕らは皆忙しいわけで、ニュースの本文なんか確かめない。
とりあえず見出し/タイトルだけ見て、「ああ、今日はこんなことがあったんだな」とか「世間は今、こういう方向に傾いてるんだな」ってことを早のみこみ&鵜呑みしてしまう。
電車の車内吊りを見ては、雑誌そのものを買わなくても「話題になってること、結論づけたいこと」がわかってしまう。だいたい、同じようなことが書いてあって、見出しだけ見れば事足りることが多い。
携帯配信のニュースなんかもそうで、見出しに書かれたことから内容を想像して、「ああ、そうだよね」と思ってしまったりする。
本当に重要なことは本文に書かれていたり、もっと言えば「本文にすら重要なことが書き漏れていたりする」のにだ。


つまり我々は、タイトル/見出しというハーメルンの笛に踊らされているのだなあ、という話。

一を見て百を知ったつもりで、実は一もわかってない

これは新聞などのマスコミに限った話でもない。
新しい事柄が入ってきたとき、それが自分に理解できないか、自分が知らないものだったりすると、自分の既知の経験の中で、もっとも近そうなものにすり寄せて、「○○○のようなもの」という理解をする。
結果、詳しい説明は見ないで『でもそれって○○○みたいなもんでしょ?』なんて訳知り顔のしたり顔をしてしまう。
後で実はずいぶん違っていたということがわかったときは、「いや、気付いてたけどね俺は」と頬被りするw

文句言っても改善はされない

「中身をちゃんと見ない奴が悪いんだ!」
というのは簡単なんだけど、中身をちゃんと見ないような人にも、全体の少なくとも8割以上は概念として伝わるような、伝え方の技術というのを身に着けていく必要はあるんじゃないかなあ、と最近、何につけても思うようになった。
結局の所、事実と違うことを言っても、これだけ再検証手段がある昨今では、飽和攻撃的調査wを受ければ「違うじゃん!」ということはすぐに判明するわけなのだけど、その飽和攻撃的調査というマンパワーが必要なことが、常に行われるわけでもなく、大多数はやはり「見だしとタイトルで鵜呑み」という情報の消費スタイルになっているんじゃないかなと思う。
「おまえらズルイからちゃんとしろ」とか、「おまえらちゃんと俺の話を聞け」と、競合者や受信者/受益者の努力不足をなじっても状況が改善しないんだったら、発信側としてライバルを出し抜く方法や、受信者/受益者が努力しなくても、こちらの意図が伝わるような技術というのを駆使していく、そういうような企業努力wを先駆けてやった人が勝つんだろなー。

要点を把握する力、タイトルを考える力

仕事柄、ここ数年は「マニュアル」や「ガイド」を書くことが多いのだけど、詳しく書かなければ一歩も動けず、詳しく書くと読み切れない。
掲示板などでの議論については、僕は草の根パソ通の頃からの付き合いになるので、一応20年近い選手ということになるのだけど(^^;)、不特定多数相手の場では、「詳しく説明すること」よりも「要点を箇条書きすること」のほうが重要であることを、何度となく叩き込まれた。
懇切丁寧な説明は読み切れないので結局読まれず、ガイドに既に書かれていることを何度も聞かれるorz というようなことを繰り返した結果、「どのようにガイドの見出し/タイトルを書くか?」ということに、より多くの時間を費やすようになった。

マスコミのやり口を学ぶ必要

そういう結論を、今多くのマスコミも共有していて、彼等は「本文に書かれたことではない、誘導したい別の内容」を見出しやタイトル、画面中のテロップなどにセンセーショナルにねじ込む技術を手にしている。
ほんの十年ほどの間に、情報発信手段を手に入れた多くのブロガーや掲示板の住人達というのは、この「見だし/タイトル/テロップの加工術」というのがもっとも立ち後れているわけで、

  • 趣旨をタイトリングする/スローガンを掲げる
  • 結論を先に書いてから解説
  • 長文には途中に小見出しを付ける
  • 要点は箇条書きしてから、個別解説を付ける
  • 最後にもう一度結論を書く

という、マスコミのテクニックを盗み学ぶようなことをしていかないと、やはり大音量のマスに追いつけないんじゃないかなー、とか思った。