2度目の種蒔きました

本日公開の種は2話。
http://www.kyofubako.com/gene/2008/

種の先行公開は、応募者のための準備という意味もある一方で、本番で必要な作業リソースの確認という意味も持つ。
新着原稿を整理する、原稿を公開する、告知はどうする、などなど。
原稿の情報管理というのが結構大変なのだけど、これについては今回は(も)できるだけ省力化する方向で。


ちょっと裏話&昔話づいているので、3年前の超-1の思い出話と合わせて、条件の話とシステムなどを将来の自分の問題解決の参考になるようメモっておく。

超-1/2006のみ試行した郵便での原稿受付は、後々物凄い量の作業負荷が掛かったので廃止した。
これにはいろいろ裏話があって、投稿フォームで直接送られてきたものは即日公開ができたのだけど*1、郵送原稿の大部分は手書き原稿だった。*2それらの郵送原稿は、編集部宛に送られていたので、ある程度数が溜まるまで滞留させてから、事務局、要するに実作業をするスタッフの元にまとめて再転送されてきた。
さらに、到着した手書き原稿をWebで公開できるようにするためには打ち込みしてデータにしなければならない。このあたりは、「超」怖い話の誇る小人さん部隊が総動員されたのだが、大変負担が大きかった。
このため、編集部に到着するまでの日数+編集部からスタッフチームの元に送られるまでの滞留日数+データ打ち込みに要する日数と、猛烈に時間が掛かることになった。
超-1/2006の大詰めで、一日の公開数が20とかふざけた数字になっていたのは、これは前半で公開規模をけちりすぎたからとかではなく、郵送されてきていた原稿の分量と作業量が、完全に想定外だったからでもある。すみません。


加えて、手書きで原稿を書かれていた方については、さらに別の問題が続くことになった。
怪コレでも、全ての著者に著者校をお送りしていたわけなのだが、現在の「超」怖い話/恐怖箱系列では、著者校は原則としてPDFに出力されてメールに添付して配送される。組版ができた時点でゲラを出し、ゲラはPDFでメール送信、それを各自が手元でプリントアウトしてゲラ読み、問題点が少なければ、指定個所を箇条書きで書き出してもらって、メールで受信。問題点が多ければ、赤を入れたゲラをFAX。問題点がめちゃくちゃ多ければorz、赤字を入れたゲラをスキャナで取り込んだのを送ってもらって、メールで受信。もしくは、バイク便で転送。
ゲラを出してからゲラ戻しまでの間に十分な日数があれば、郵送や宅急便といった手段も使えるのだけど、著者の人数が激しく多い怪コレ、締切までの行程がタイトな最近の文庫では、そうした悠長なゲラ進行が難しくなってきている。
超-1/2006の郵送原稿で怪コレに採用された方、FAXなどの送受信手段がない方には、これらの怪コレのゲラも全て郵送で送られることになった(一部、携帯宛に修正済みテキストを送って読んでいただいた方もいたが、当然ルビなどは無理orz)。
「超」怖い話/恐怖箱系列は、昨日の思い出話の中にもあったように、かなり早い段階からDTP入稿を試し続けてきたわけなのだが、それを特例としたとしても今日の編集/出版体制だと、よほど時間的にゆとりがあるか、昔ながらの大家かでない限り、「パソコン・ネット(メール)・FAX・プリンタ」は対応できていないと、先々仕事にならない。松村・久田両君が覇者となった折にも「とにかくFAXとスキャナとレーザープリンタは買ったほうがいい」と念押ししたくらい。特に彼等は東京から遠い地で執筆を続けていかなければならないわけで、ホテル缶詰も編集部呼びつけもままならない。時間のロスを最小にするための設備投資は避けられなかった。高額とは言えない賞金であったが、あれはほとんどその後の準備金になってしまったのではないかと思う。


そんなこんなで、才能と環境は本来天秤に掛けるようなものではないのは承知の上なのだけど、環境が不十分な才能は仕事を発注する側からは「面倒だから」という非常につまらない理由で避けられることになってしまうことは否めない。
かつて、電話がない作家の元に足を運ぶのが編集者の仕事だったのだが、作家が増えて電話が普及し始めると、電話がない作家というのは選択肢の外に置かれるようになった。これで消えてしまった草創期の先達もいたと思う。
似たような話が芸人の世界にもあって、今でこそ誰でも携帯を持ちいつでも連絡が取れるので、急な仕事というチャンスを逃がすことはなくなったそうだが、まだ携帯などなくて電話の権利金も決して安くはなかった時代、駆けだしの芸人さんは風呂なし四畳半に住んでいても、電話だけは必ず引くようにしていたのだそうな。「急な仕事というのはあっちも急いではるから、捕まる奴に話がいくねんて。そういうチャンスをモノにせんとあかんから、新人でも金のうても電話は必需品やったんや」というようなことを、以前の取材の折に伺った。
かつての電話という道具・環境が、パソコン・ネット・FAX・プリンタに置き換わったということだろうなと思う。


そんなこともあって、超-1/2007からは「郵送不可」の条件が加わることになった。郵送のみ、手書きにしか対応していない人の中にも、得難い才能があったはず、というお叱りも頂戴したし、事実そうだったろうとも思う。
けれども、得難い才能が不便な条件を強いるということになった場合、その条件を受け入れてくれる出版社ばかりとは限らないわけで、将来先々のことを考えると、結果的に選ばれた人に負担を強いることになるには変わりない。
最近では大学受験や企業入社試験なんかで、資料配付や入社申し込みをネットからしか受け付けないところも増えている。携帯とメール、パソコンは使えて当然という資格条件と、それとは別の才能は、一方を排他的に選ぶような要素ではなくて、必須の前提とプラスの要素、という位置づけに移行してるんじゃないかなと思う。
少なくとも今の30代くらいでパソコン/メール使えなかったら、社会生活的にもやばいわけで。40代以降で、パソコンやメールの経験なしに社会に出たり、今の地位を築いてしまった人、専門分野としてのIT関連に関わることなくやってこれた人にはピンとこない話かもしれない。このへん、デジタルデバイドの境界点というのは、厳密に「○歳から」というのがあるわけではないのだろうけど、意識的なズレに関しては「年齢で言えば40〜50代」「分野で言えば理系〜文系」「主義で言えば手書き〜キータイプ」という感じで、複数の条件によってあるものかもしれない。
少なくとも出版の分野に関わる場合、才能を支える装置としてのパソコン・ネットは、ないと話にならなくなっていくのは避けられない。今はそういう長い長い移行期の最中にあると思う。
このへんは突き詰めていくと出版業界全般や印刷業界とのシフトの変動などという、これまた、駄話の思い出話で語りきれる規模を越える話に発展するので割愛。


「超-1や遺伝記では、郵送原稿は受け付けられないです。将来作家になりたい人は、パソコンとネット使えないとヤバイです」
このくらいの認識は持っててくれるとありがたいかな、という感じ。


一方で、携帯電話からのアクセスはどうする? という問題が持ち上がってきたのが超-1/2007。
超-1/2006は携帯電話の参加というのはあまり念頭になかった。このため、携帯では非常に使いにくい仕組みになってしまっていたのだが、超-1/2007ではある程度、携帯での参加を前提に仕切り直された。
ただこの携帯対応というのは、コンテンツをなかなか共通化できないというか、コンテンツがヘタすると3倍になるという新たな問題を発覚させた。


可能な限り省力化したいので、パソコン向けに作ったコンテンツを携帯でも読んで貰おうとすると、携帯側の環境やコンテンツ側の構造によっては読めないコンテンツが出来てくる。
例えば、<iframe>を使った入れ子状のHTML構造だと、一部の携帯ではそもそも表示が出来ない。Flashも同様で、これも機種を選ぶ。携帯ではないけれども、iPodやDSやWiiなどの非パソコン系Web端末の一部からアクセスすると、CGIに対応しなかったり、やはりFlashが動かなかったりする。
僕が作るコンテンツは全般に二世代くらい前の枯れた技術*3でのみ書かれているものが多いのだけど、これは「もっともパワーのない端末からでも同じデータが読める」を念頭に置いたため。要するに、複数コンテンツを管理する余力がないためだw
超-1/2007から登場した順位表データの表示などにはCGIを使っているし、応募作品の受付、そもそもエントリーblogの表示などCGIを完全に排除することはできないし、うまく使って省力化に役立てたいけれども、携帯のみの層というのを完全排除するわけにもいかない。


そこで、超-1/2007からはエントリーblogの共通化、遺伝記からは応募受付CGIの共通化が行われることになった。
エントリーblogは現在、「bloq」というCGIを改造したものが採用されている。この場合の「改造」というのは、ひとつにはセキュリティ関連の改造。もうひとつは超-1/遺伝記特有のコメント講評のための配点フォームの追加。これはオリジナル版にはない。このあたりの改造についても、小人さん部隊の手による部分が大きい。僕は何しろ文系の人間なのでw
それに加えて、パソコン版と別に用意された携帯版。bloqには元々携帯からも読めるようにレイアウトを簡略化した表示機能があって、これを使えば携帯でもパケ代をケチりながらパソコン版と同じ記事をよむことができるのだが、これだとコメント講評はできない。(読むことはできる)
携帯からも講評ができるようにしてほしい、という要望を受けて超-1/2006では携帯用にエントリーblogを分けたのだが、それは管理が死にそうなほどに大変だったので、超-1/2007では増えつつあったフルブラウザ対応携帯(auで言うとPCサイトビューアー対応相当)であれば、という条件付きでコメント講評が行えるように、パソコン版のbloqをもうひとつ用意して、表示レイアウトを徹底的に軽量化したものを用意した。参照しているデータはパソコン版と共通なので、どちらからも同じ記事、同じ先行コメントが読める、という仕組み。


前回の超-1/2008では携帯からの作品応募は、専用CGIが用意されたのだが、これはこれで管理が死ぬかと……orz
というのは、超-1/2007からのパソコン版の原稿受付CGIは、応募時の記入内容の一切を、そのままCSVファイル化して管理するようになっている。このため、作品ごとのペンネーム、本名、応募者情報などが一元管理できるようになっている。
が、携帯版はCSV化されないため、それらの基礎情報の管理を、パソコン版と一元化できない。いちいちここでまた手入力で移し替えないとならないわけで、死ぬorz
超-1/2008では携帯とパソコンの一元化は結局間に合わなかったのだが、今回の遺伝記では携帯とパソコンは一元的に同じCGIで受け付けるようになった。このため、作品情報・応募者情報はようやく一元的に管理できるようになる。


この辺の話は、応募者が悩む話ではなくて、主催者が悩む話wであるわけで、まさに水面下で水を掻く白鳥のバタ足的な裏話。
超-1/遺伝記のようなシステムでは、ハチドリのように猛烈に羽ばたき続けるというのを長時間続けることはできないわけで、オオワシのようにできるだけ羽ばたかずに最大限の高度とスピードをキープできるよう、省力化していかなければならない。
その意味では、「動かし始めたら最小の力で動作し、ランニングコスト(お金という意味以上に、人的リソースをどの程度食うか、という意味で)を最小にする」という仕組みを、開始前に用意しておくということにほとんどの労力が割かれている。
その代わり、応募者がいて講評者がいると、それに応じた規模の「人」が動き、「人」が動くことで動作規模が決まる、というような装置に仕上がっている。このへんは、作家・著者という視点からではなくて、「省力化されて動く装置、仕組み」言うなれば一種のピタゴラ装置的なものという視点から意味のある話なんだけど、まあ、それはそれでよし。


今回は、エントリーblog以外でも携帯からアクセスするかパソコンからアクセスするからで、ある程度振り分けされるようにレイアウトしている*4。このため、携帯専用URL、みたいなものが最小になるように配置できた。
ただ、新しい技術を使うと新しい問題というのは必ずできてくるわけで、そこらへんの対応というかメンテナンスからは逃れられないような気はする。プレ・オープンの期間中にできるだけ埃を出してしまっておきたいなと思う。


超-1のノウハウが遺伝記に生かされているのは確かなのだけど、やってることがまったく同じというわけでもなく、細部では少しずつ進化改良されている。これは「次にやるとき、もっと楽をするため」であって、実際に管理作業を負う自分への先行投資。
また、今回の遺伝記で採用された「他の設定と繋がってること」というルールは実話怪談オンリーである超-1には絶対にフィードバックできないルールであると同時に、これをうまく図式化するための方法があってこそ実現にこぎ着けられたとも言える。Frieve Editorは全然別の目的で別のツールを探しているときに偶然見つけたソフト。それから他の仕事のための思考整理になんべんか使ってみて、とても面白かったので今回はこれでのデータ提供に踏み切った。
ほんとはFrieve Editorでしているようなことを、ブラウザ上からリアルタイム表示できたらいいのにな、というのが理想なんだけどw、それは現状では過ぎたる望みであるわけで。
一度、いつもCGI改造をお手伝いいただく小人さんに相談してみたら、要望に近いものを出力するものを組んで下さったのだが、マシンパワーかなり食いそう/管理がすげー大変そう/小人さんの負担が大きそう、ということで保留になった(´・ω・`) すみません。
とりあえず、「既にあるものの新しい使い途を考える」「既にあるものを組み合わせて、本来と別の使い方をする」という、枯れた技術の重層思考+最小の労力で最大の効果が得られるテコの原理的なシステムを、うまいこと回していきたいな、という話です。

*1:実際には溜まりすぎちゃって待機作品が随分できたorz

*2:一部、CD-Rに焼いておくってくださった方もいた

*3:HTML4.0とかw

*4:キャリア別振り分けCGIを濫用w