欲しい才能

ぼちぼちと始めてる遺伝記の種。
ルールに従い種明かしは会期の最後なのだけど、今回の種蒔き大会wでは、「え?」「お?」という方にもご参加いただいた。事実上の無記名参加出来高払いwなのに、道楽におつきあいいただき恐悦至極。いやー、僕一人で全部種蒔きとかにならなくてよかったw というか、今の時点で既に僕の書いた分量は半数にも届いていない。
どんな企画ネタでもそうだと思うのだけど、だいたい「最初に出たもの」よりも、それを踏み台にして翻案したもの改良を施したもの発展させたものなどなど、後から出てくるもののほうが遥かに優れていることは多々あるし、むしろそうでなくてはいけない。その意味でも種というのは捨て石であるわけで、最終的に種が候補に残ったりしてないような展開になるのを、実はウキウキしながら期待している。我ながらマゾ〜ンと思うが、性分なので致し方なし。


超-1と遺伝記は、一見するとそっくり同じでテーマだけが違うように見えるのだけど、実は求められている才能がまったく違ったりする。
共通点は「肩書き勝負はなし。中身で勝負。読者&ライバルの感性で判断が下される」という点。
「共に鎬を削るライバルを納得させられるようなものしか、先には行かせなくてよ!」というのは、概念としては新しいものではなく、むしろ昔ながらの少年漫画スポ根漫画の定番だと思うんだ!w
並みいる強豪学園に奇蹟の勝利を収めた主人公に対して、本来本命だったはずのチームが「まさか、俺たちを破るなんて!」「俺たちを下して甲子園に行くんだ。優勝しなけりゃ承知しないぜ!」みたいなそういう感じのw
要するに、自分が負けたと思った相手が、いきなり別の誰かに負けたら、負けた自分達は「タダのその他大勢」に成り下がってしまうけれども、自分達に勝った相手が優勝までこぎ着けたら「少なくとも、俺たちは優勝した奴らにしか負けてない!」という言い訳が(ry
それはともかくとして、「あんな大したことがない奴ら」と思うなら、そのように点数を付け、「なかなかやるな」と素直に認められるなら、そのように評価することができる、というのが、「ライバル同士で相互審査をする」という超-1システムの本旨であるわけなのだった。文句があるなら、マイナスでもプラスでも、誰でも自由に投じたらよい、と。その代わり、君の一票は、君が誰であっても一票分しか影響を与えられないし、君が誰であっても君が投じた意見が大勢に影響を与えなかったのだとしたら、君は少数派なんだよ、ということを講評する側も思い知らされることになるわけで。
自分はメインストリームの側にいるはずだという前提で意見を述べたら、実はそうでもなかったりするということを気付かされて愕然とするのが、超-1の厭なところ……と僕もそう思う。


超-1のその仕組みが実際のところどうだったのかという話をすれば、恐怖箱を冠した怪医は発売一週間で重刷、先月発売の蛇苺も、後押しが何もないポッと出の新人作家としては上出来合格の報を頂戴した。読者が読みたいと思った、同じ座を競い合ったライバルに太鼓判を押された人が立つべき場所に立ったということで、そういう人を釣り出すための仕組みとしての超-1は、営業的な数字で合格の評価をいただいたことになる。他になんの取り柄もなく、有力者の後押しもないところから始めたささやかな企画の裏方として、これほど嬉しいことはない。
もっとも、そうした仕組みの上に乗っかってきちんと実績を上げているのは偶然じゃない実力でここまできた人々であり、またそういう人の作品をきちんと選んで送り出してきた超-1の全審査参加者の皆様の実績であるわけで、このへん、「読者ありき」だよなと思う。


超-1は、「たくさん取材できる人、ネタが払底しても、追加取材ができる人。たくさんネタを集められるが故にたくさん書ける人」を探すことを最優先課題としている。
実話怪談では、読者は常に「異なるバリエーションの、聞いたこともないような、初めて聞く話」を求めている。聞いたことがあるような話は、飽きてしまうのだ。ビックリしたい、怖がりたいという人に、一度でも聞いたことがある話をすると「またそれか」「最後にお化けが出るんだよね」と、安心してしまって驚かないし怖がらない。だから、「誰も聞いたことがないような話を探せる人」というのが、実話怪談の書き手としては読者の期待に応えられる人ということになるんだと思う。
超-1は、「誰でもok、とりあえず1本でもok」というお祭り的な要素と、「本気でデビューしたい人」という登竜門的な要素の双方を兼ね備えているけれども、後者を望む人はやはり量を書けなければ続けていくのは難しいだろうとも思う。
これに応えるためには、「一人で違う話をたくさん集められるネタの取材力/蒐集力」か、「取材力/蒐集力はほどほどの人をたくさん集めるか」のどちらかが必要ということになる。超-1は、「超」怖い話のための人材として主に前者が必要というところから企画開催された。年2回、「超」怖い話を出していくためには、鬼神のごとくネタを集められる人でなければ、物理的に不可能だ。ましてや、今となっては平山夢明という異才天才は「超」怖い話を卒業しているわけで、それに劣らないネタへの嗅覚は第一義となる。
そうして松村・久田両君は選ばれたのだけど、実は超-1は結果的に後者にも恵まれることになった。恐怖箱チームの面々は想定外の宝石であったと思うし、恐怖箱は妖しく光る宝石箱ですらある。僥倖と思う。
また、「あったることを書き、体験者の恐怖を忠実に再現する」という必須能力もなければならない。実話怪談書きに求められる文章力というのは、「再現力」なのではないかと個人的には思う。


一方、同じ(ような)仕組みを使う遺伝記というのは、超-1とは実は求められる才能が微妙に違う。
もちろん、「量を書ける人」というのは同じ。超-1と同じく、たくさん書ける人が有利になるようにはなっている。超-1の配点/講評システムは、そもそもそういう「量産できる人」が有利になるようにできているので、これは致し方ないのだが、これにはきちんと理由がある。
同人誌を作ることが目的なのではないわけで、やはり将来的に仕事として書ける人を見つけたいという気持ちがある。このとき必要なのは、もちろん「良いもの」を作れる人ということになるのだけど、同時に「量を書ける*1人」そしてさらに重要なものとして「頭が柔らかくて機転が利く人」というのが求められたりする。
自分の書きたいものだけを書いて、それで評価されるというところに誰でもたどり着けるなら、そんな幸せなことはないのだけど、実際にはなかなかそういう自由な話はない。いずれそういうことをさせてもらえる身分になる前段階としては、能力を見せなければならなかったり、様々な条件に見合ったものができるかどうかのテストをされたり、そうでなければ十把一絡げ的な能力試験がされたりすることもある。どんな分野でもどんな仕事でもそうで、入社一年目の新人が、いきなり十億の取引を任されたりしないというのは、どの世界でも同じだろう。


で、遺伝記で重視されるのは「機転」。柔軟さと言い換えてもいい。目の前に出ているものを「こんなのダメ」と腐すことは、誰にでもできる。読者はそれをどんどんやっていい。一方で、腐すだけなら誰にでもできるわけで、「俺ならこうする」「俺のほうがいいのができる」「コレをこうすれば、俺に都合がよくなる」という具合に、刻々と替わる状況から、次々に自分に都合のいい環境を自分で作り出し、自分を有利な状況に押し上げるように書き足していける、機転。それを後押しする量産力。これが、遺伝記でもっとも求められる資質のひとつと言える。
実話怪談ではあったることに手を加えることは許されないと思うのだけど、遺伝記のような仕組みの物語群では逆に、読者やライバルを説得(或いは屈服w)させられる機転、機先を制する引っ張り回し方=頭の柔らかさ、批判に加えて対案を出せる柔軟さ。そういうものが求められる。
そして、そうした機転のきかない、文句を言った分だけそれを上回るものを出してくることができない人間が何言っても説得力はない。「だったらおまえやってみろよ」ということになる(^^;)


それが故に求められるのが「野心」。
チャンスというのはいつでもあるし、あるからと思っているとだいたいなくなっているか、他の誰かがかっさらっている。
チャンスの女神は前髪しかない、というような話があったようなw 後ろ髪を掴もうと思っても手遅れだから、こちらに向かってくるときに前髪を掴めというような意味で、チャンスの女神はみんなGIカット。
遺伝記というのは「たった一作に全てを込めて、それさえ認められればいい」というものでもない。もちろんそれでもいいんだろうけど、先々、そういう才能のある人にはたくさん書いてほしいし、一人で一冊書いてほしい。一人で一冊書けるということを事前に証明するためのコンペの機会が遺伝記。そして、持ちネタをどのように加工して、オーダーに合わせられるか?という機転が利くかどうかを拝見したいという思惑もある。さらには、「自信があるなら独占したらいいじゃない?」という誘惑もあるw
遺伝記は、自信があるなら何本書いて貰っても構わないが、いちばんよかったのを1本だけが選ばれるわけではない。匿名公開匿名審査は、作品本位内容本位で評価して貰うためにあるわけなのだが、それによって結果的に「上位50本がすべて同じ人の作品で、他の応募者/審査員がすべてそれらの50本を推していた」なら、傑作選はその人が事実上独占、事実上自分一人の本にすることができる。椅子取りゲームでバトルロイヤルというのはそういう意味なのだが、それほど才能がある人がいたなら、それはそれでも構わない。
野心があり、自信があるなら、それに挑戦して貰って全然ok。
超-1同様、「ネタを使い切っても、すぐに新しいネタを考えつける人(超-1の場合は取材ができる人)」が有利であり、ネタを温存しない&機転が利く人が有利ということになる。
「あんなの全然ダメ。俺のほうが凄い。俺の書いた奴で全部埋め尽くすのは簡単」
そのくらい野心が強くて、機転が利いて、手の早い人。
そういう人が上位に来るんだろうなと思うし、そういう人の出現を期待している。


そして、種はあくまで種。
種を全部駆逐して、自分の作品で塗りつぶしてやるくらいの野心と機転と、それに見合うモノが書ける人。そして、ちょっとの想像力がある人。
超-1は、読者の求めるような実話怪談を書ける人を見つけ出し、見つけ出された輩出者は、その求めに応じる実話怪談本を商業ラインで実際に刊行した。結果も出ましたw
遺伝記もまた、読者に求められる恐怖小説を書ける人を見つけ出し、その人の書いたものが多くの人に求められるというものであれば、そういうラインに乗せられるよう、微力ながら尽力したいと思っている。


僕はやっぱり自身がモノカキであること以上に編集屋なんだなあ、と思うのはこういうとき。
「あんなの大したことねえよ。俺の方がすげえよ」と燻ってる人に、「じゃあ、やってみ?」と機会を作り、それが凄かったらもう全力で応援したい。ミジンコみたいな後押しであっても、僕ができることを全力でやりたい。路上でフライヤーだって配りますよw
チャンスの女神の前髪を鷲掴みできる人。
チャンスの女神の前に躍り出てタックルかませる人。
そのくらいの人が、一人でも二人でも見つかれば、それだけでも遺伝記はやった価値があると思える。





ところで。
怪ダレとか忌火起草(小説)とかダムド・ファイル リストとか、ときどき仕事で小説を書いたりしているんだけど、実話と小説どっちのほうが書いてて楽かと言われたら、うーん、どっちだろう。
……やっぱ、編集かなw
自分が書いてるよりは、ピッケルと刷毛を片手に埋もれた才能を掘り出してるときのほうが僕にとって至福の時かもしれんなあ。
願わくば遺伝記でも、「機転が利いて野心があり才能の出し惜しみをしない人」が見つかりますように。来年、その人に全力で投資できますようにw

*1:少なくとも、文庫1冊書き下ろしを一人でできるくらいでなければ、この商売は仕事にできないと思う。1冊の文庫で得られる報酬というのは、思われているほど高くないわけで、1年で1冊だとそれだけでは食っていけない。印税ウハウハ伝説の打破というのは、また折を見て書いてくべきだよなあ。