講評の読み方

遺伝記では、超-1未経験の方向けにガイド、マニュアル、チュートリアルなどを山ほど書いたのだけど、考えてみたら「講評の書き方」は書いたけど、「講評の読み方」を書くのを忘れていた。
教わるようなもんでもないからいっかー、と思っていたが、実は結構重要だったかもしれない。


まず、カクテル・パーティ効果という言葉がある。
詳しくはぐぐればいくらでも出てくるので割愛するが、「カクテルパーティのような賑やかな(聞き取りにくい)場所でも、自分の名前を呼ぶ声や金を落とした音などは聞き取ることができる」ということ。
転じて、「人は自分が見たい物しか見えず、聞きたいことしか聞こえない」という意味合いにも使える。
これはカクテルパーティに限った話ではなくて、自分に対する噂話・風評や、自分が気にしている何かに関する評判、そしてここで触れる「自分の作品への講評」などにももちろん当てはまる話。


自分の作品を応募して暫く経つと(もしくはその日の内にw)、有象無象の審査員がピラニアの如く襲いかかってきてw、その作品に講評を付けていく。審査員は、読み専の一般読者審査員かもしれないし、ライバルの他の応募者かもしれない。しかし、名前を見ただけではそれがどちらかはわからない。遺伝記はそういう審査方法を取っているw

信頼できる人と信頼できない人がそれぞれまったく同じ発言をした場合、人は信頼できる人の発言であればそれを積極的・好意的に受け取り、信頼できない人の発言であれば、まったく同じ内容の発言だったとしても消極的・否定的に受け取る。

「誰がそれを言っているか?」という発言者の身分肩書きによる発言内容の担保は遺伝記の審査にはない。後に残るのは「何と言っているか?」の部分だけ。
権威・肩書きが剥ぎ取られた講評は、辛辣であったり想像以上に好意的であったり様々なのだが、ここでカクテルパーティ効果が絡んでくる。
自信作を出した場合、褒めてくれる講評は耳に心地よく、点数が高ければ気分もいい。「その講評者は見る目がある」と肩入れもしてしまう。
耳に痛い講評は逆に腹立たしく、点数が低かったり、低く点数を付けた理由に納得がいかなかったりすると、「こいつわかってねえ!」と、名前を覚えてことある毎にその講評者に反発したくなったりもしてしまうw

もちろん、自分の意図した内容がきちんと汲み取られて、正しく評価されて点数も付けば嬉しいし、自分の趣旨を理解され共有されたことが確認できるのは一種快感でもあるから、そうした耳に心地よい意見だけを偏重して、その逆の手厳しかったり誤読されたりしている講評は「わかってないから無視する」という反応をしてしまいがちになる。
が、こうした辛辣な手厳しい講評の中に、自分自身が解消できなかった問題点に対するヒントがある。
中には具体的に問題点を指摘し、「本来はこうしたかったのだろうが、こことここが足りず、伝わりにくい」とアドバイスをしてくれる講評もあるだろうけれども、大多数はそうではなく、趣旨とは違う解釈をして点数をマイナスしたりしている場合が多い。そこにヒントがあるわけで、どのように誤解されたかを読み解くことによって、「自分に何が足りなかったか?」を、プログラムを逆アセンブリするが如く引き出すことができる。つまり、「伝わらなかったこと」「間違って伝わってしまった理由」を、辛評から引き出すことができるわけだ。


文章を書くというのは、「自分の考えを発表し、同調/共感者を求め、同調/共感を得ることで自分自身の考えが正しいこと(または共有されたことそのもの)を確認する」ということがその根幹にある。それは主題が「怒り」「嘆き」「恐怖」「笑い」その他如何様な感情や、目的の場合でも同様で、著者自身が思ったことを、読者にも同じように思って貰いたいというのが、文章を書く……自分の脳内の考えを表に出す理由であると思う。それがないなら「思う」に留め、脳内の主張を紙に書きだして人に読ませるなんてことはしなくていいわけなのだからして。


ということは、「共感して貰える人」よりも、「共感して貰えなかった人」を、どのように説き伏せていくか、どのような書き方をすれば共感を引き出せるか、ということに力を割いたほうが、より多くの共感を得られるということになる。正しく伝わらなかった人の誤解振り、辛評こそが自分の弱点改善のヒントということだ。
一言で言えば「良薬口に苦し」。今更言われるまでもなく、わかっちゃいるんだけど、苦いクスリほど敬遠しちゃうのもまた事実。


遺伝記では、作品公開の時点で作者名を公開しない。
だから、審査する側も「この作品が誰のものか?」はわからない。「前回良かったから今回もよいはず」「前回ダメだったから今回もダメだろう」といった下駄は履かせられない。複数作応募してみるとわかる話だが、同じ審査員に対して「ピコーン」と通じて共感が得られる場合もあれば、まったく同じ審査員に徹底的に貶されたりする場合もある。
そこに、「なぜなのか?」を考える余地が生まれるのだろうなと思う。


多く品評会の場合、講評は最終的な結果が出た後に「来年頑張れ」というニュアンスで語られる。遺伝記では、来年ではなく「今すぐ頑張れ、次回作を今すぐ書け、今すぐアドバイスを生かせ」と大変せっかちなことを言われている。しかも、アドバイスされた作品をもう一度書くということはできない。「もう一度書け、新しいのを書け」と燃えよペン!みたいなことを言われるわけで、次々に新ネタを転がしていく生産力がある人ほど成長が早くなる。
たぶん、会期の終わり頃に見違えるほどうまくなっちゃってる人がゴロゴロ出るんじゃないかと思うと、また商売敵増えちゃうなあ、と不安になってくるw


書き手にプライドは必要だけど、プライドというのは耳を塞ぎ目を閉じて、見たいものだけ聞きたいものだけしか受け付けないということではない。そんなものが最初から必要ない天才は、誰からもアドバイスなどされずに一人で成功できるだろうけど、たぶん大多数の天才じゃない人間は、この「人の話を聞く」「厳しい話も聞く」というのができないとなかなか先へ進めないんだろなと思う。
天才の自覚がある人はともかく、その可能性は薄そうだと秘かに思ってる人は、こんな感じで講評を役に立てさせて貰ったらいいんじゃないかなと思う。
こんなん、心が強くないとやってられないよなー。
(*´・ω・)(・ω・`*)ネー




余談だが、カクテル・パーティ効果は「心地よいことだけが聞こえる、見える」というものの他に、「そうなればいい」と望んだ願望を裏打ちするものしか見えない、というのがある。
この場合の願望というのは、「心地よいこと=自分へのプラスの評価など」の他に、「自分が憎んでいる他人の失敗・失脚・悪評」などがあって、例えば誰かの悪口や他の作品への辛評をひとつ見かけると、その悪口に世界中の全てが賛同しているように思えたり、その作品への評価が全て辛評であるように思えたりしてしまう。まあ、これもその人にとって「妬みが快感」ということなのかもしれない。自分の中にそういうものが潜んでいるということについて、無自覚でいるより自覚しておいたほうがマシ。この世に天使はいませんので。
また、自分に自信がない場合にもこれが作用して、世界の全てに否定されたような気分になってしまい、大変落ち込んでしまう方もちらほら*1
気にしすぎないのも問題だが、気にしすぎるのも問題で、「無視せず、しかしそれに耐えられるようになる」というか。鉄面皮になりましょうということなんだけど、なろうと思ってなれるもんじゃねえよな、ということでアドバイスにもなんにもなりゃしませんw
褒められたことを鵜呑みにして俺が神っていう意識になってしまったときがいちばん危険なのかもしれないな、とちょっと思っておくくらいでちょうどいいのかもー*2

*1:中島みゆきの「蕎麦屋」の一節に「世界中が誰もかも偉い奴に思えてきて、まるで自分一人だけが要らないような気がするとき」というのがあるのだが、自信過剰も問題あるけどそこまでの自信喪失も問題あり。酒飲んでシャワー浴びて一眠りして「そうでもないよ?」と言えるくらいでいつもいたいものです。

*2:これが他人事だとよく見えてくるのに、自分ごとだとさっぱり見えなくなるから不思議。それこそカクテル・パーティ効果という奴で、主語や目的語を省略して書かれた一般論や罵倒中傷が、なんでもかんでも自分のことのように思えてきたら、それはたぶん考えすぎ。ちょっと頭を冷やしたほうがいいかもしんない。