実名と匿名

時事問題的な見地からの実名と匿名の問題は、毎日新聞問題のエントリーで書いているので割愛。
遺伝記は*1なぜ匿名公開制を採ってるのかな? というお話について。


実際のとこ、売名が目的であれば実名なりペンネームなり、どちらにせよ固定の名前というのをどんどん押し出していったほうが、商売的には都合がいいのは確かであるわけで、「テレビに出た」「前に○○○を出した」というセールスポイントがあれば尚更「ああ、アノ!」と名前を記憶して貰える。売れ線というか、売り出し中の段階に入り、さらには名前で売れる段階になったら、そりゃもう実名なり固定のペンネームなりがあったほうが断然メリットが大きいのは間違いない。このへん、編集者的なというか、売る側仕掛ける側、それを承知で乗っかる側の理屈でもある。
そのとき、飽きられやすい名前(その場のノリと流行りに乗って適当に付けちゃった風化しやすい名前)や、後々営業的に使いにくい名前wは、後で凄く後悔することになるから、暫定期間を過ぎてプロデビューが決まったら名前はきちんとしなさいよ、というのは無冠老兵からのアドバイス。とらぬ狸の皮算用な話だけど、例えばアルファベットのペンネームというのは書店にネームプレートを棚差ししてもらえるような身分になったとき、揃いのを作るのがとても大変らしい。収まりきらなかったり、咄嗟に読めなかったりするため。
また、僕がカバーに名前を出して貰えるようになってこのかた大変苦労しているのが、名前の画数。といっても、姓名判断的にどうこうという話ではなくてw、画数が非常に多い漢字と画数が非常に少ない漢字が入り交じっている名前は、カバーに名前を印刷するときに大変難しいということ。画数が全て少ない漢字で構成された名前であれば、名前はとりあえずゴシック(太文字)にしておけば、埋没せずによく見える。乙一さんとか。
逆に「薔薇」とか「魑魅魍魎」とか画数が全て多い漢字だけで構成された名前であれば、それはそれで明朝(横は細く縦が太い)にしておけば、なんとなく格好が付く。
だけど、画数の多い文字と少ない文字が混在していると、画数の少ない字に合わせてゴシックにすれば、画数の多い文字が潰れて読めず、画数の多い字に合わせて明朝にすると、画数の少ない文字は擦れて目立たない。まあ、そういうとこまで考えて名前を決めたほうがいいですよ、というのがひとつ。*2


話を戻して、実名のデメリットの話。
実名、固定ペンネームのメリットは、既に述べたように「上り調子で売り出しを掛けたいとき」に有利だけど、同時に「アンチファンの誹謗」「指名されての妬み嫉み」といったものにも晒されることになる。
「○○○さんの本だったら、考えずにとりあえず買っておく」というメリットには、「○○○の本は内容なんか確認せずに絶対に買わない」というデメリットにも直結しているわけで、一度嫌われようものなら内容を確かめずに名前で毛嫌いされてしまうようなことも重々あり得る。「一冊読めば後は読まなくてもわかる」というような、逆方向のファンに対しては、実名・記名が逆効果を生むことになるわけだ。
どうしても「自分が書いたものは全ての人が祝福して褒めてくれる」と信じていないとやっていけない商売ではあるものの、実際にはそんな都合のいいことは起こり得ないわけで、「あいつが書いた、関わった」というだけで全否定されることもしばしば起こる。
実名・固定ペンネームで行くということは、その名前が受ける利益と同時に、その名前であるが故の不利益も引き受けなければならない。本を書いてお金を貰うというのは、そうした不利益に対する責任も同時に引き受けなければならないということでもあり、そういうのを聞き流していける程度に心臓が強くないと、人前に名前なんか出してられないよね、という側面がある。
シャイで人前に出てこない作家さんはともかく、名前を出して自分の名前で仕事を続けて行けている人々というのは、その功績もその批判も一身に浴びているわけで、ホントに偉いなあ、と思わざるを得ない。


んじゃあ、なんで遺伝記や超-1は匿名なのか? というと。
まず、名前や肩書きだけを見て内容を名前で判断するようなことをさせないため、というのがひとつ。あの人は有名だからおもしろいに違いない、あいつは有名だけど嫌いだから何を書いても褒めるもんか、聞いたことのない奴だから褒めるもんか、などなど、恣意的なものの見方というのはなかなか避けられないものだ。
また複数作品の応募に制限がない遺伝記/超-1では、「前に読んだのがつまらなかったから今回もつまらないに違いない」という色眼鏡ではなく、毎回プレーンに見て貰い思い込みを排除するために、作品公開時には作品に作者名を付けない、という制度となった。


他にも効能はある。
プロが参加する場合。万一、普段使いのペンネームなり実名なりで遺伝記に参加して、散々な評価が付いたら後々の作家生命に差し障りが出る。
またはプロではないけれどもその他の催しへの参加経験の都合上、ここでは名前を出せない、といった事情のある方もあろう。
そういう事情から、普段と違うペンネームで参加なさっている方もいる。だから、最後に結果公開の時点でも「いつもの名前」は出せない方も混じっている。
が、それはそれで何ら問題ない。
というか、それこそが匿名制のメリットでもあるわけで、それまで蓄積してきたものを失うことなく、同時に蓄積してきた名前・肩書きのアドバンテージなしに、現時点での実質的な能力がどれほどのものかというのを、その他の有象無象の人々の作と同列に評価を受けるという機会は、実はプロであってもそうそうない。*3


プロになる前はアマである。
プロの看板を隠しているなら、アマと扱いは同じになる。
名前を出すことのメリットがない代わりに、名前を出すことのデメリットもない。そういう状態で、内容勝負・実力勝負をやってみたらおもしろかろうというのが、一連の「匿名公開制」の採用に繋がっているのだった。
プロになる前から名前のプレッシャーと戦うなんていうのは労力の無駄だし、ダメならダメでダメな評価を引き摺らずに、また新しいのを作ればよい。名前で得ができない代わりに、名前に責任を負わなくていいというのが、この仕組みの優しさwであると思う。
遺伝記は、勝ち抜けて本に載る段階になって、始めて責任が付いてくる。Web掲載のみの段階、アマチュアでいるうち、或いはプロの看板を掲げないなら、そのくらいの気楽さで腕試しをするのもいいんじゃないかな、とか。


もし、匿名でもなんでもその作品が評価されて、本に載ったり褒められたり、ちょっと先へ一歩踏み出そうものなら、それに嫉妬する人やそれを快く思わない人、悔しい人、違う派閥の人w、出る杭は叩いても許されると思っている人々が雲霞の如く集まってきて、名前だけを理由にボコボコにされるんじゃないかと思う。
でもプロになったら、そういう理不尽なことにも耐えられるくらいの精神力はないとやっていけない。才能があり、その上で面の皮が厚い先人たちは、そうやって生き抜いてきたんだと思うわけで、そういう精神的なタフさ、強かさは見習わなきゃな、と思う。
デビュー前は、そういう煩わしいことと無縁でいてほしいし、面倒と距離をおくためにも、「大切な名前はいざというときのために鍵付きの箱にでも入れてとっておいて、今日のところは普段と別の名前でも付けておきゃいいんじゃない?」ということで、遺伝記は公開時匿名制&普段と別のペンネームによるプロの参加を拒んでませんよ、というような話でした。

*1:超-1も

*2:かといって読めない難字や、第二水準に入ってないような特殊な文字だと、誤字誤読されることと一生付き合うことになるw

*3:面と向かってどうですかと聞いたら褒めてくれることのほうが多いwだろうし、ダメな場合は話題に上がらない。ここがダメ、ここがわかりにくい、そんなアドバイスはプロになったら誰もくれない。